「黒人差別問題」に揺れるコロナ禍の広州リトルアフリカを歩いた
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小さいとき、僕は8コ上の兄と一緒の部屋で暮らしていた。
「黒人になりたい!!」、そんなことを言う兄だった。
Black Eyed Peasというアメリカのヒップホップグループが好きで、特に、Where is the loveという曲を爆音で聴いていた。
そんな影響を受けてか、僕もBlack Eyed PeasとかR. KellyとかNe-Yoとか、ブラックミュージックが大好きになった。
だから、「黒人って超カッコいいな」と思うようになった。
大学3年でアメリカに留学したとき、僕はアメリカ人のルームメイトに兄のことを話した。
すると、「マジかよっ!」とすごく驚いて、どんな感情なのか、よく笑っていた。
彼は黒人だ。彼の立場からしたら、差別の対象になることの多い黒人になりたいという人の話を聞いてびっくりしたのかもしれない。
実際、彼は、自分が黒人だという理由で差別を受けたことがけっこうあったらしい。ある日、授業から帰ってきた彼が、教授に人種差別されたと言ってブチギレていたのは印象的でよく覚えている。
でも、僕も兄も、純粋に、黒人ってイケてるな〜と思っていた(もちろん、今でもそう思っている)。
差別という問題は、ほとんどの人にとっては、気にしているつもりでも「大変だね〜」くらいのある種の人ごとだ。実際に経験してみないと、どんな風に感じるかなんてよくわからない。
理不尽な理由で差別されたどうしようもない悲しみと、そこから生まれる煮えたぎるマグマのような怒りなんて想像できない。
僕も、基本的にはその一人だ。でも、”幸いにも”、僕は多少とはいえ人種差別のようなことを経験したことがあるし、何より、差別を目撃する機会もまあまああった。
だから、今回は、差別について書いておきたい。特に、コロナ禍で注目された(そして論争になった)広州での黒人差別問題について、記録しておきたい。
コロナの厳戒期、広州リトルアフリカの中心地・小北の様子
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結論から始めると、広州では黒人差別があった。
広州には、歴史的に多くのアフリカ人が住んでいて、その数は中国一の4500人ほどとされる。特に、越秀区という広州中心部のエリアには、「リトルアフリカ」と呼ばれる彼らのコミュニティがある。
差別問題は、主にそこで起きていた。そして、2020年4月から欧米などのメディアがこの問題を報道するようになると、一気に世界中の注目が集まった。アメリカがアフリカ系アメリカ人に広州訪問への注意を呼びかけたり、アフリカも問題に声を上げるなど、中国との間には外交的摩擦も高まっていた。
そんなとき、コロナによって広州で足止めされていた僕。ちょうど、リトルアフリカからほど近い越秀区の他のエリアにいた。
広州の行政区画。赤丸の部分が越秀区。
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最初、広州というアフリカ人に一番親しみがありそうな都市で起きたというこの問題を聞いたとき、僕は驚いた。ここでそんなことあるかなって。でも、確かに、リトルアフリカからこんなに近くに3ヶ月もいるのに、黒人を見たことが一回もなかったのはおかしいなと思っていた。
じゃあ一体、何が真実で、何が起きているのか。
僕は、リトルアフリカに行ってみることにした。
そもそも、僕がリトルアフリカに行くのは初めてではなかった。北京の大学院にいたとき、移民に関する授業のフィールドトリップで、アフリカ人移民コミュニティを見学するということでリトルアフリカに行ったことがあった。
そのとき見たリトルアフリカは、多くのアフリカ人で賑わっていて、僕たちはアフリカンレストランでおいしいアフリカ料理を食べたり、アフリカ系のショッピングモールで買い物をしたりと、とても楽しかったのを覚えている。
フィールドトリップのときに見た広州のリトルアフリカ(広州駅周辺エリア/2019年春)。
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今はどうなっているのか。そんな鮮やかなイメージとともに、僕はリトルアフリカに向かった。
僕がまず訪れたのは、前回行ったエリアとは違う三元里。ネットで調べると、三元里にもアフリカ系の人が多いと書いてあったからだ。
でも、僕が駅周辺を何時間も歩き回って探してみても、アフリカ人は(というか、外国人も)全く見つけられなかった。ただ、確かに英語表記をしているお店は多かったので、外国人が多い方なんだろうということはわかった。
「たぶん、僕の探している場所が悪いんだろう」と思って、コンビニの店員に、アフリカ系の人はどこにいるのかと聞いてみた。「別にどこというか、ここら辺ならどこにでも多くいるよ。近くのマンションなんかにも、多く住んでるよ」と言っていた。
でも、路上には全くいない。春節休みやコロナで国外に出たのか、あるいは、いろいろな事情で街中に出て来づらいのか。よくわからないが、何かがいつもとは違っていた。
三元里を諦めた僕は、次に、小北に行った。小北は、リトルアフリカの中心地とも言えるエリアで、前回のフィールドトリップでも来た場所だ。三元里とは違い、アフリカ人の多いエリアが明確に区画されている(西北部出身のイスラム系少数民族なども多い)。
そんな小北に着いたとき、三元里を長く歩き回っていたこともあって、すでに夜になっていた。でも、僕はすぐに異変に気がついた。前回、あんなにも多くのアフリカ人が活気よく行き交い、煌煌とした照明で明るかった小北が、全然人のいない真っ暗な場所になっていたからだ。ほとんどのお店が閉鎖され、そもそもこのエリア自体も数カ所の入口を除いて全ての通路が封鎖されていた。
お店の閉鎖やエリアの封鎖は、別にこの場所だけで起きていた訳ではなく、中国人のエリアでも多かった。でも、リトルアフリカと呼ばれるアフリカ系コミュニティの中心部に、誰もアフリカ人がいなかったのは不思議だった。
1年前とは全く様子が違った小北。以前、この場所はとても明るかったことをよく覚えている。
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小北のリトルアフリカ近くで閉鎖されていたレストラン。上はアラビア語のようなので中東系移民のお店か。
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翌日。「日中なら様子が違うかもしれない」と思った僕は、再び小北に行ってみた。
すると、エリアの入口で早速驚くことがあった。黒人の女性がひとり、ポツンと道端の石に座っていたのだ。僕は、すぐに駆け寄って彼女に話しかけた。
僕:“Hi, hmmmmm, do you live here?(ハイ、あのー、ここに住んでるの?)”
彼女:“Yes(そうよ)”
彼女は、広州に移り住んできて3、4年というコンゴ人だ。(確か)20代後半で、最初は留学生かと思ったが、どうやら仕事を求めて中国に来たらしい。
僕は、やっと見つけたアフリカ系の彼女に、積もりに積もった様々な疑問を聞いた。それで、まず、このエリアが長く封鎖されていることがわかった。また、街中でアフリカ系の人を見ない理由は、多くの人が隔離されているからだとわかった。
僕は、黒人差別についても聞いてみた。すると、彼女は、中国には黒人差別があって、動物のように扱われることもあると教えてくれた。また、黒人差別のせいで、なかなか仕事も見つからないし、家賃も不当に高くされていると言っていた(ただ、この部分は、必ずしも「黒人差別」ではなかったかもしれない。彼女は中国語が話せず、英語もうまくなかったし、家賃が普通より高かったりする問題は、単純に外国人だったからかもしれない。)。
でも、彼女は、「差別はあるよね」程度で深くは気にせず、単純に良い生活を求めて情報を探しているようだった。例えば、僕が北京の学校に通っていると知ると、熱心に北京の状況を聞いてきた。北京ならアフリカ人でも仕事が見つかるのかとか、アフリカ人でも普通に家が見つかるのかなどだ。僕は、黒人たちの状況なんてわからないので、後日、北京に住んでいる黒人の友達に聞いてあげることになった。
話は大きく戻るが、そもそも、黒人が全く見つからない街中で、なぜ彼女はひとり道端に座っていたのか。僕は聞いた。
僕:“What are you doing here?(ここで何してるの?)”
彼女:“I’m waiting(待ってるの)”
僕:“Waiting for what?(何を待ってるの?)”
彼女:“I’m going to quarantine today(わたし今日隔離に行くの)”
僕:“What? What do you mean?(え?どういうこと?)”
なんと、彼女によると、彼女は警察に呼び出され、今日からホテルで隔離をするためにここで待っているという。言われてみれば、すぐ近くには交番があった。でも、彼女は、感染者との濃厚接触などはないので、自分は黒人だから隔離されるのだと言っていた。
これが、ニュースになっていた「差別」なのか。なんなんだ。
僕が困惑していると、遠くから真っ白な防護服を着た3人が歩いて来るのが見えた。彼らが、彼女を迎えに来た人たちだった。
彼らは、彼女の前、数メートルは離れた位置に立つと、話し始めた。それは、男性が中国語でいろいろと彼女の状況について質問し、女性が英語に訳して話すというものだった。女性の英語は理解するのに十分なものだったが、まるで機械のような無機質なトーンで話していたのが印象に残る。
このとき、僕はまだ彼女の2メートルくらい離れた隣にいた。すると、彼らも困惑した感じで、こんなことを言った。
“What are you doing here? You are not scared? She is dangerous.(お前はここで何をしてるんだ?怖くないのか?彼女は危険だ。)”
僕は、ショックだった。
さっきまで仲良く話していた彼女は、危険人物扱いされていた。
そして、「すぐにこの場を立ち去れ」と厳しい剣幕で言われ、僕は離れざるをえなかった。
それから、ただただ歩いた。少しすると、セブンイレブンのイートインスペースに入り、呆然としていた。
まじか。
彼女大丈夫かな。
どうなったかな。
ちょっとしてからさっきの場所に戻ってみると、彼女はもういなかった。
ついさっき出会った人が連れていかれるという出来事に、僕は衝撃を受けた。
数時間後、彼女からメッセージが来た。話していたとおり、隔離用のホテルに入ったようだ。
でも、そんな話なんてさておき、彼女はすぐにまた、仕事や住む場所の質問を始めた。
コンゴ人の彼女が連れていかれた後に送って来たメッセージ。隔離の話なんてさておき、早速、仕事と住む場所の話を始めた。
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(※この後、家の問題については、僕の紹介したアフリカ人の友達が、アフリカ人を支援するコミュニティと彼女をつなげて手助けしてくれた)
(※彼女は隔離される理由がないと言っていて僕はそれを信じたが、もし防護服の彼らの言っていたことに根拠があったのならば、僕の行動は軽率だった部分もあるかもしれないと思った。でも、彼女は隔離開始時の検査で陰性だった。)
三元里・小北と行ってみて、広州のリトルアフリカで見ておきたいエリアはもう一つだけあった。広州駅周辺のアフリカ人コミュニティだ。
広州には、そもそも様々な卸売市場が多いのだが、広州駅周辺は、特に衣料関係の卸売市場が密集していた。そして、その近くには、アフリカ系のお店が集まるエリアがあった。ここも前回のフィールドトリップで来たことがあり、多くのアフリカ人で活気のあった場所だ。
でも、やはり三元里や小北と同じように、全てのお店が閉鎖されていた(その道中にあったアフリカ系以外の卸売市場も、多くは閉鎖されていた)。また、人がとても少なく、案の定アフリカ系の人は誰もいなかった。
広州駅周辺のアフリカ系コミュニティは、文字通り、完全に閉鎖されていた。他の場所でも閉鎖は多かったが、アフリカ系コミュニティの閉鎖はより厳格に感じた。
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広州駅周辺のアフリカ系コミュニティは、文字通り、完全に閉鎖されていた。他の場所でも閉鎖は多かったが、アフリカ系コミュニティの閉鎖はより厳格に感じた。
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広州駅周辺のアフリカ系コミュニティは、文字通り、完全に閉鎖されていた。他の場所でも閉鎖は多かったが、アフリカ系コミュニティの閉鎖はより厳格に感じた。
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広州駅周辺のアフリカ系コミュニティは、文字通り、完全に閉鎖されていた。他の場所でも閉鎖は多かったが、アフリカ系コミュニティの閉鎖はより厳格に感じた。
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広州駅周辺のアフリカ系コミュニティは、文字通り、完全に閉鎖されていた。他の場所でも閉鎖は多かったが、アフリカ系コミュニティの閉鎖はより厳格に感じた。
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広州駅周辺のアフリカ系コミュニティは、文字通り、完全に閉鎖されていた。中に滞在している人も少なくなったのか、数カ所しか電気がついていなかった。
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広州駅周辺のアフリカ系コミュニティは、文字通り、完全に閉鎖されていた。中に滞在している人も少なくなったのか、数カ所しか電気がついていなかった。
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「やっぱりか」と思って帰る途中、なんと、さっきは誰もいなかった立橋の下に黒人の男性がふたり腰掛けているのを見つけた。例のとおり、今回もすぐに駆け寄って話しかけた。
彼らは、中国でまあまあ長く(確か5年〜10年の間)働いているナイジェリア人だ。最近は広州にいるが、以前は貴州省などでも働いていたらしい。
そんな彼らがなぜ橋の下に座っていたのか。僕は、衝撃を受けた。
彼らこそが、ニュースで言われていたホームレスとなった黒人だった。1ヶ月ほど前にアパートから追い出され、それからずっと路上生活をしているという。僕は、そんなことありえるのかなと半信半疑だったので、本当に見つけたときはびっくりした(確かに、追い出されたりホームレスになることはありえるかもしれないとは思ったが、彼らが路上で悪目立ちするのも微妙なので、もしそんな人がいたら隔離用のホテルなどに連れていかれるだろうと思っていた)。
でも、彼らによると、警察は彼らを連れていくよりも、むしろ無関心で、放置するだけだと言っていた。だから、コンゴ人の女性のケースとは違って、彼らは隔離用のホテルに連れていかれることもないと言っていた。
彼らにとって、それはそれで問題でもあった。ホテルも宿泊拒否をしていたからだ。また、帰国をしたいと思っても、飛行機がないので動けない(彼らは、祖国には家も車もあるから帰りたいと言っていた)。
アパートがなく、隔離施設がなく、ホテルがなく、飛行機もない。彼らに残された場所は、路上しかなかった。
彼らは、あてもなく路上に座る
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彼らは、それでもたくましく生きていた。でも、彼らの経験をいろいろと聞いていると、彼らは「黒人差別がひどい」と嘆いていた。中国では、コロナ以前からも黒人に対する差別が多少なりとはあったというものの、最近の広州では特にひどくなってきていたらしい。
例えば、バスやタクシーの乗車拒否、商店やショッピングモール、レストランでの入店拒否など(広州の一部マクドナルドは、黒人入店禁止の張り紙をして炎上した)。商店などは、入れたとしても嫌がられたり、お金を払うにも、接触を嫌がってお金の端っこだけつままれると言っていた。また、レストランで食べられないということで、商店で買った少しの食料をビニール袋に入れて持ち歩いていた。彼らは、それを路上でちびちびと食べているという。
彼らが感染しているかもしれないという根拠があれば、やむをえないこともあるかもしれないが、彼らは、黒人ならコロナの陰性証明書を見せても差別されると怒っていた(黒人の友人が、ショッピングモールの入口で陰性証明書を提示したにもかかわらず入店拒否されたという動画を見せてきた)。
「ほら、見てみろ!」
そう言って、彼らは目の前を歩く人たちを指差した。僕はあまり気にせず話していたが、確かによく見てみると、僕たちの前の歩道を歩く人の中には、できるだけ遠くを歩こうと避けてくる人が多かった。
「これが差別だ」
彼らは、切なそうというか悲しそうというか、複雑な感じで言った。
途中、そんな僕らが気になったのか、話しかけてけた女性がいた。実は、彼女も外国人だった(マレーシアかシンガポールの華僑)。彼女は、彼らに同情を示しながら少しだけ話すと、また自転車で走り去った。
彼らは、黒人差別にとても怒っていた。
でも、彼らにいろいろと悲しい話を聞く中で、特に心に残った言葉がある。黒人差別に苦しむ彼らが、それでも中国人を憎むのではなく、”We are one(俺たちは一つ)”と何度も繰り返し言い続けていたことだった。
“We are one, why do they discriminate African people!(俺たちは一つなのに、なんでアフリカ人を差別するんだよ!)”
あなたなら、差別をしてくる人たちに向かって”We are one”と言えますか?
僕は、感銘を受けた。
でも、綺麗事なんて抜きに彼らの生活が厳しい。僕は、彼らを少しでも支援してあげたいと思い、持っていたお金を全部あげた。たぶん、1週間程度の食費にしかならないだろうけど、それでもできることはしてあげたかった。
この場を離れるとき、僕は彼らと肩を組んだ。僕の方から組んだ。普段なら、そんなことはあまりしない。でも、このときばかりは、「僕は彼らのことを差別なんてしない」、「差別なんておかしい」、「We are one」と伝えたくて、意識的に彼らに近づいた。
“We are one”
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(※それから少し経った後、彼らもコロナの検査を受けさせられることになったと連絡が来た。その後は、隣町の友人の家に身を寄せることができたという。でも、祖国にはなかなか帰れないので、大変だっただろう。)
彼らとのメッセージ。悲痛な声が伝わってくる。
僕:とにかく、安全でいてね。今は大変だけど、全部どうにかなるから。
ナイジェリア人の彼:そうだね、でも、彼らは俺たちをこんな風に扱うべきじゃないよ、俺らは一つなんだから。
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彼らとのメッセージ。悲痛な声が伝わってくる。
僕:今のところ問題ない?
ナイジェリア人の彼:どんだけ長くこんなことを続けられるんだよ、俺はもうこんな状況に疲れたよ。俺たちがどんな間違いをしてこんな風に扱われるっていうんだよ。
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コンゴ人の彼女、ナイジェリア人の彼らとの出会いは、衝撃的なものだった。僕は、何とも言えない感情と強い問題意識を持った。
それは、中国人の高校生もそうだったのだろう。広州の黒人差別問題が報道されて少し経った後、中国の高校生グループが広州を訪れ、この問題に関するドキュメンタリーのような動画を制作した。それは、アフリカ系コミュニティの様々な人にインタビューした、よくできたものだった。
彼らが中国人とアフリカ系コミュニティの間の差別問題や対立の原因として言っていたのが、コミュニケーションだった。確かに、中国人とアフリカ人では言語も文化も異なるので、コミュニケーションがうまくいかないことも多い。実際、黒人差別として聞く問題の中には、人種とか関係なしに、ただのコミュニケーションによる問題なのではと思わされるようなものもあった。
でも、コミュニケーションが根本的な問題ではない。根本的な問題は、みんなの意識だろう。これは日本や他の国にも当てはまることが多いが、中国には、どこか(無意識的に)有色人種を下に見てしまうような人が多少なりともいる。白人はどこか上の方にいて、色が濃くなるにつれて下がっていく。その中でも、特に下に見られがち(蔑視されがち)なのが黒人だ。
黒人をどう見るのか。人種をどう見るのか。黒人が消えたリトルアフリカに掲げられる彼らの写真。
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ここでのポイントは、蔑視されるのが「黒人」だということだ。ただの「アフリカ人」ではない。肌が黒くなければならない。だから、アメリカ人でも黒人であれば差別の対象になりえるし、逆に、アフリカ人でも(例えば南アフリカの)白人なら差別の対象とはならないだろう。
だから、この問題は「黒人差別」なのであって、「アフリカ人差別」とは少し違う。
高校生グループのドキュメンタリーはおもしろかったが、みんなが本当に気がつかなきゃいけないのは、その問題のルーツが根深い意識から来ているということだ。そうじゃないと、この黒人差別の問題は一向に解決しない。
これについては、北京にいたアフリカ人の友達とも話して同じ意見だった。
アフリカ人の友達:
「今回、広州で黒人差別問題が起きちゃったけど、その原因は、コロナとかコミュニケーションだけじゃないんだよ。というのはさ、中国ではコロナ前からも黒人差別はあったんだよね。今回は、ただそれがひどくなったってだけ。じゃあ、それまではなんで差別があったかって?やっぱりそれは、意識だよ。」
僕らが思うに、中国の人による黒人差別の中には、必ずしも悪気がないものもあるかもしれない。多くの人が、無意識的に、潜在的意識につられて(差別となる)行動をしているだけなのかもしれない。でもだからこそ、問題の根っこに気がついて、意識を変えていくべきだろう。
黒人って超カッコいいのに。
Where is the love?
We are one, right?
(※そもそも論として、黒人差別のきっかけとなったのは、2020年4月初旬に、アフリカ系の感染者が病院の人の静止を暴力で振り切って抜け出そうとしたという話があった。また、アフリカ系コミュニティで感染が拡大しているという噂が出回るなどした。これらをきっかけに、黒人に対する視線が厳しくなり、例えば、広州にいる全てのアフリカ人(約4500人)がコロナの検査を受けさせられたり、本文中で紹介したような様々な「差別」が起きたとされる。)
(※街中ではほぼ全く見なかったアフリカ系の人だが、5月からは、急に多く、普通に街で見かけるようになった。彼らが隔離用のホテルから戻ってきたのか、それとも街中を出歩く許可が出たのかはよくわからない。でも、僕が見かけた限りでは、特に問題もなく歩き回っているようだった。ただ、リトルアフリカの各エリアでお店が閉鎖されていたのは、少なくとも5月中旬までは変わっていなかった。)
(※黒人差別の問題が批判されると、広州がある広東省では黒人差別禁止の対策が導入された。すると、様々な場所に、人種差別を禁止することについて中国語・英語・フランス語で書かれた張り紙がされるようになった(下の写真3つ)。ただ、重要なのは実際の行動なので、それでどこまで変化があったのかはよくわからない。)
黒人差別禁止策の一例。1番目の規定で、全ての国籍、人種、民族の人が平等に扱われ、同じサービスを享受できると書いている。
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黒人差別禁止策の一例。1番目の規定で、全ての国籍、人種、民族の人が平等に扱われ、同じサービスを享受できると書いている。
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黒人差別禁止策の一例。1番目の規定で、全ての国籍、人種、民族の人が平等に扱われ、同じサービスを享受できると書いている。
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(旅とパンデミック***20, 2021年1月17日)