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1月〜2月にかけて新型コロナウイルスが深刻化すると、中国に対する見方は中国内外でどんどん厳しくなっていった。
「中国は危険だ」、「地獄のようだ」、「早く脱出しなければ」。
特に、1月末は中国の春節休みに重なっていて、学生のほとんどは長期休みに入っていたため、留学生のほとんどは文字通り脱出した。いま中国はやばいから少しだけ自国に帰るか他の国に移って、2月末にまた学期が始まる頃に戻ってこよう。たいていの人はそんな”軽い気持ち”で、多くのものは持たず出国した。
僕は北京大学大学院の留学生が多いプログラムに所属していたので、友人たちが瞬く間に脱出していくのを日々見聞きしていた。
では、そんな僕はどうだったか。僕は2019年9月より2020年春までの予定で中国全ての省と全ての世界遺産を訪れる旅・「ミドルキングダムの冒険」をしていたが、2020年1月24日に広東省広州に到着して以降、各地の非常に厳格な移動制限により身動きが取れなくなっていた。
1月下旬の広州
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広州は日本人も多い大都市なので、日本に脱出しようと思えばすぐにでも飛び去ることができた。でも僕はそうしなかった。僕は、広州に残ることにした。
そうすると、よくいろいろな人からこう聞かれた。
「Kazukiはなんで中国に残ってるの?」
「中国は危険なのに脱出しないの?」
なぜか。それは、僕が旅の再開と達成を全くあきらめていなかったからだ。
そもそも、一番初めの段階で明らかに問題が深刻だったのは武漢だけだったため、僕は2週間くらいすれば厳戒態勢の中だとしてもそれ以外の地域はまだ旅ができると思っていた。また、もし問題がそれよりも深刻だったとしても、僕の計画上、旅の終了を限界まで後ろに延ばせば、最悪3月中旬まで広州で待つことができた。逆に言うと、3月中旬までに旅を再開できなければ、今回の旅で中国制覇をすることは物理的に不可能だった。
1月26日に広州の観光地をまわったが、どこも無期限閉鎖されていて問題の深刻さを痛感させられた
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少なくとも(感覚として)絶対に感じていたのは、もしいま中国を脱出すればもう絶対に旅は達成できないということだった。1月末や2月初めの頃は、まだ必ずしも国境封鎖や飛行機がなくなるなどの状況に完璧にはなっていなかった。でも、一回出ればもう二度と戻って来れない、そう思った(実際、僕の友人はみんなそうなった)。だから、コロナウイルスをめぐる情勢がどうなったとしても、中国を脱出するという選択肢は絶対にあり得なかった。
これは本当に残念だが、もし例えコロナウイルスがひどすぎでもう全く旅を再開できないとわかっていたとしても、可能な限り僕は中国に残ることを選んだだろう。もちろん安全な方がいいが、それでも日本の田舎に避難するよりは”世紀のパンデミック”の現場を自分の目で見て、学び、記録したかった。
そんなんでひとり残った中国だったが、そこで”待っている日々”はつらかった。社会の相当な場所が閉鎖され、外は安全でないとされ、ホテルにこもっている時間が多かった。生活のリズムなんて大崩壊し、昼夜むちゃくちゃな生活をしていた。外でご飯を食べるのも安全には感じられなかったので(そもそも広州はしばらくの間、店内での食事が禁止だった)、いつも出前で頼んだご飯を部屋で食べていた。最初の1週間くらいはいっぱいあるレストランから好きな食べ物が注文できて幸せだったが、そのあと生活リズムが崩壊した中では食欲なんて全くなくなり、ただ、食べない訳にもいかず食べていると、毎日毎回食事のたびに吐きそうだった。つらかった。でも、旅を再開して中国制覇を達成してやるんだという強い意志だけを柱に、全く見えない光(旅を再開できる日・旅を達成する道のり)を待って、探した。
”待っている日々”
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いつもホテルの部屋から見ていた夕日。広州についたとき、夕日は左のビルの後ろに落ちていたが、いまでは右のビルの後ろに落ちるようになった。
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先が全く見通せなくて困った
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3月に入ると、少なくとも広州では状況が少し好転し始めたように感じた。少しずつ今までずっと閉まっていたお店や観光地が再開し始め、街にいる人や交通の量も増えてきていた。広州以外の状況を調べてみても、どこもなんらかの制限はあるものの少しずつ再開・開放・正常化し始めていた。
広州中心部の広場ではコロナ禍でも噴水ショーをやっていた
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旅再開のデッドラインはもうすぐそこに迫っていた。だから僕は、どこまでできるかわからなかったが、少なくとも不可能ではなかったので一か八か旅を再開する決意をした。そうと決めると、52日間も足止めで滞在していて愛着さえも湧いてきていたホテルの部屋を全て片付け、旅の準備をした。
準備ができたのはすでに夜中だった。次の日の早朝に出発しようと思っていたので、僕は最後のベッドに入った。でも、眠れない。明日向かう場所がわかっているとはいえ、本当にそこに向かうのでいいのか、その場所の後は本当に想像通りのルート(沿岸部を北上するルート)で旅をできるのか最強に悩んでいたからだ。コロナ禍の中では各地の情報が非常に不明確かつ流動的で、調べたことによると平気そうでも現地に行くまで本当に何が起きるかはわからなかった。だから、不安しかなく、出発までもう全然時間がなかったが、明日行く場所やその後のルート、政府が決めた外国人に対する各種規制までいっぱい調べた。
「少なくとも、理論上は、物理的には、いまの計画通りに旅を再開できそうだ」
だから、僕は覚悟を決めて、少しだけ寝た。
数時間後。とうとう旅の再開だ。いまとなっては中国にとどまらず世界中でパンデミックとなっている中、僕は旅を再開する。やるからには絶対に達成してやろうと思った。
「長い間本当にありがとう!コロナ禍の間も僕だけはずっと泊まらせてくれてすごく助かった。どうなるかわからないけど、また旅を再開しようと思う。悲しいけど、(今回は)もうまた会わないで済むといいな・・・。ありがとう。行ってくる。」
旅の再開の記念に
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その覚悟の後、どうなったのか。
この後は、旅を再開した翌日・3月17日に書いた【決断】を引用したい。
(以下インスタグラムの投稿より:3月17日)
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きのう3月16日、僕はやっと旅を再開しました
中国の新年を祝う春節の前日1月24日に中国南方の大都市・広州に来てから、きのうまで52日間もほぼずっとホテルに引きこもって”自主隔離”をしていました
いつまた動けるようになるのか全然わからない中、黙々とこの状況の中でできるベストをしてきました
中国に関する動画を本格的に作り始めたり、真面目な調査もして修士論文も書き上げました
特に、武漢について作った動画は一つの転機となり、いくつかのメディアに紹介されたり出演しました
また、中国に関して記事を書く機会ももらえるようになりました
そんなことをしていると、とうとう中国国内の状況が安定してくるようになりました
でも今度は逆に、世界中での状況がかなり悪化してきました
3月11日にはWHOが問題はパンデミック状態にあるとも発表しました
そんな中決めた旅の再開
中国の状況が良くなってきたとはいえ、実際問題はいっぱいあります
多くの観光地はまだ閉鎖されてるし、交通機関が減ってるし、何より日本/外国出身ということで強制隔離される可能性があります
でもいろいろ調べた結果、今であれば理論上は/物理的には旅を再開することができると考えました
あと、きのう3月16日がこの旅を中断することができる限界でもありました
中国はとにかく超でかいです
そしてその全ての省(計33省)と全ての世界遺産(計55個)に行こうとなるとかなりの時間が必要です
僕の場合は、2019年9月2日から旅を始めて2020年3月くらいまで約200日間旅をすれば、全てを制覇できる予定でした
でもその3月になってもまだ広州にいる
今までに行った省は17省、世界遺産は23個なので、まだ16省と32世界遺産余っています
中国は超でかすぎる…
ただ、終了はどんなに頑張っても5月末までしか延ばしようがありません
ということは、きのう出発すればなんとか70日くらいは確保できる
そうすればなんとか残りの全ても制覇できると計画を立てました
だからきのう旅を再開しました
実際すごく不安だったけど、気合を入れてまた重いバックパックを背に一歩を踏み出しました
そして向かったのが広州から南に2時間くらいの場所にある開平という小さな町
世界遺産にも登録されている碉楼(ちょうろう)という独特な建築が見られる場所です
広州から長距離バスでこの町に向かうまで、それまでの不安がアホみたいに何の問題もありませんでした
日本人とバレても何一つ言われることはありませんでした
だから、「よし!なんとか旅を続けられそうだ!」と思った
でも開平のバスターミナルに着くと全然そんなことありませんでした
バスターミナルに着くと外に出るためには一人一人身分証のチェックが必要でした
でも僕ともう一人の人が止められた、詳しく登録をする必要があるからと
自分は日本のパスポートを持っていて、もう一人の中国人の女性は武漢市発行の身分証明証を持っていました
ただそこにいた人はフレンドリーで、色々と最近の行動歴などの質問をされて、書類を埋めていくという感じでした
しばらくすると武漢出身の女性はバスターミナルから出て行きました
次は自分だと思っているとそんなことありませんでした
彼らは僕がいま健康かつ広州でずっと隔離もされていたという証明書を出せと言ってきました
でもそんなものありません
僕はパスポートの出入国記録や広州のホテルの全ての領収証など自分の行動を証明できるものを全て見せましたがそれでも聞く耳を持ちません
今度は広州のホテルに電話して、オーナーに全て事情を話してもらったけどそれでも聞く耳を持ちません
ホテルのオーナーは地区の責任者たちにも掛け合ってくれたけど、彼らもみんな厄介なことには関わりたくないので誰も証明書をくれないと言います
それで僕に与えられた選択肢は2つだけ
このまま開平で14日間隔離されるか、いま来た広州に帰るかです
それでもいろいろと納得のいかないことがあり、1時間以上はずっと彼らと交渉してました
でも万策尽きました
広州に帰るしかありません
それ以外選択肢がありませんでした
こうなると広州に無事に戻れるかも微妙でしたが、広州では特に厳しいチェックもなく戻ることができました
そしてもう52日間も滞在したホテルにまた帰ってきた
ホテルに戻ってきてからは、オーナーに感謝するとともに今日のことを踏まえて他の地域の状況なんかをいっぱい話しました
それでわかったのは、今の状況だと他の地域に行ったとしても同じような問題に直面する可能性が超高いと
しかも、今回は広州の近くの町だったから見逃してもらえたけど、遠い町に行ったときは否応なく強制隔離だろうと
僕は次の日(今日3月17日)の夜行列車で福建省まで大移動をするチケットも手配していました
でもとてもそんな状況じゃなくなってしまった
開平にも行けない、福建省にも行けない
日本に行けば14日間の隔離、
日本から中国に戻ればまた14日間の隔離。
もうどうしようもありません
だからこのタイミングでの旅の再開を断念することを決めました
夜行列車のチケットもキャンセルしました
でもこの決断はかなりつらいものでした
というのも、いま旅の再開を断念するという決断はイコール旅の達成を断念するという決断だからです
いま動けなければもう全ての省と全ての世界遺産に行くことはできません
でももうどうしようもありません
やれることはやりました
だからもう切り替えて、またいつもと同じように今の状況でできるベストに全力を注ぐことにします
この旅を今回達成するとこはできないけど、それなら1年、2年、3年かかってでも絶対に達成します
あきらめることは絶対にありません、ただやるだけです
いやー、でもつらいな!!!
まさかこんな世紀の大流行に邪魔をされるとは!!
いい経験にはなってるけど、いま達成したかった!!!!
もう全て決断した後はなんか悔しくて、外でいっぱい甘いものとか美味しいものとか強い炭酸を買ってきて食べてやりました
それでやたら『レ・ミゼラブル』が見たくなって暗闇の中で観ました
また一人で、この広州のホテルの部屋で
1月24日に来た時はまだ肌寒かったのに、いまはもう暑いくらいです
p.s. ホテルのオーナーとスタッフには超感謝です。実は2月にホテルの営業が停止されたときも、自分だけ一人特別に泊まらせてもらっていました。あと、今回の決断のあとも自分はまだ旅が再開できるようになり次第旅を再開します。もう1ヶ月とか1週間しか旅を再開できないかもしれないけど、それでもできるとこまでやります。その後は、また将来的に成し遂げて行きます。最近は自分のことを”旅行からもっと平和な世界をつくるピーストラベラーKazuki”ということにしましたが、本当に日本と中国の間の旅行を押し上げていけばもっと平和な世界をつくれるんです!
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ホテルのオーナーと(日本への帰国直前)
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ホテルのスタッフと(日本への帰国直前)
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ミドルキングダムの冒険はつづく。
(旅とパンデミック***17, 9月13日)