中国とコロナと僕 〜パンデミックの厳戒期から安定期の状況まとめ〜(***19)

2020年12月13日

 

春節直後の1月25日からずっと閉鎖されていたカトリック教会(4月4日撮影)。観光客は教会から離れた場所に置かれた柵から眺めるしかできなかった。この日(4月4日)は、「清明節」という人々が墓に参って先祖を祭る中国の祝日だったから、色々な場所で半旗が掲げられていた。特に、今年は、新型コロナウイルスの犠牲者追悼の意味も込められていた。

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コロナウイルスの問題が深刻化した1月、中国旅をしていた僕は、武漢の封鎖が衝撃的だった翌日の1月24日に広州に滑り込んだ。でも、それからというもの、中国各地は感染拡大を防ぐための厳戒態勢に入り、旅はもちろん他の都市への移動すらまともにできなくなった。

 

そんな広州に、僕は114日間もとどまった。まだ旅の再開と達成をあきらめていなかったからだ。でも、結局、僕は旅を再開することができず、荷物がいっぱい置いてある北京の学校にすら戻れず、5月中旬に広州から日本へ帰国することになった。

 

この114日間で、僕は、中国におけるコロナウイルス問題の厳戒期から安定期を通り抜けた。だからこそ、広州の様子やその変化など、様々なことを見聞きしてきた。

 

そこで、これまでの記事でも特定のことについては書いてきたが、この記事では、もっと網羅的に、中国はどんな状況だったのかを項目ごとに記していきたい。

 

こんな予定ではなかったが、結果として大学の卒論にもなれるほど超長い記事(約3万5千字)になってしまったので、一番上にある目次を見て興味のある項目から読んでもらうのがいいと思う。それか、写真とそのキャプションだけ見るのでもいいかもしれない。

 

広州の街と人の状況:ゴーストタウン?

 

1月下旬はコロナの深刻化に加えて、春節の延長もあったので街が閑散としていた(1月下旬撮影)。でも、ゴーストタウン・・・?

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1月23日に武漢が封鎖されると、中国各地は急速に厳戒態勢に突入した。そのとき広州にいた僕は、中国に関するニュースを日々ネットで見ていた。

 

「中国はやばい」

 

「武漢は地獄」

 

そんな感じのセンセーショナルなコンテンツが多かった。

 

また、厳戒態勢の中国を表すのに、人が全然いない街並みを映して、「ゴーストタウン」と報じているものも多かった。確かに中国は大変な状況にあったとはいえ、煽るために「やばい」とか「地獄」とか言うのはどうなんだと思っていたが、特に、僕は「ゴーストタウン」という表現に違和感を感じていた。中国(広州)にいた僕にとって、街の様子は「ゴーストタウン」と呼ぶには大げさすぎで恣意的だと感じたからだ。

 

中国が一番厳戒態勢だった1月下旬から2月中旬は、確かに街中の人は少なかった。それは、そもそも春節で帰省している人が多くて都市から人が消えていたことがあったし、春節の休みが多くの場所で延長されて彼らがなかなか戻ってこなかったことがあったし、都市に人がいても仕事がオンラインになったり遊びに行きたい場所が閉鎖されていれば外出する機会は減っていたことがあったし、安全のために室内で過ごす時間を増やした人が多かったこともあった。団体旅行が禁止され、各地から観光客が姿を消したことも影響していた。

 

でも、僕は、少なくとも広州の状況はゴーストタウンと呼ぶには違うと思った。人がいつもよりはかなり少ないとはいえ、それなりの人が歩いている場所は市内に何ヶ所もあったし、地下鉄の中にも人はいた。

 

地下鉄にはまあまあ人が多かったのは印象的だった(1月下旬撮影)。でも、これもどの時間にどの路線に乗るかによってけっこうばらつきがあったように思う。

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そもそも、「ゴーストタウン」という表現をするかしないかはかなり主観的なものだ。また、広州をはじめとした中国の都市は、切り取る場所や時間によっては、確かにゴーストタウンのような映像を撮ることができたのも事実かもしれない。でも、そのような面を強調して、「ゴーストタウン」と印象付けしていたのには強い違和感を持った。僕は、中国を擁護したいみたいなことは全くない。でも、少なくとも、中国はメディアが騒ぐほどゴーストタウンではなかった(武漢はそうだったかもしれないけど…)。

 

この辺りは人も車もけっこう少なかったし、お店もほとんどが閉まっていた(1月下旬撮影)。ここだけ切り取ればゴーストタウンに見える?

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広州の繁華街・北京路の様子(1月下旬撮影)。この写真を撮ったのが21時半くらいだったことも影響しているとは思うが、確かに人は少なかった。営業しているお店も多少はあったが、閉まっている場所も多かった。

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では、そんな風に報道される場所にいた人達は一体どんな感じだったのか。僕が印象的だったのは、コロナのどの段階にあっても、中国人(広州の人達)はパニックになっている様子が全く感じられなかったことだった(これも武漢だけは例外かもしれない)。みんな、確かにそれぞれ様々な状況で困ってはいただろうが、とても落ち着いていた。単純に、先行きが見えず、これからどうしたらいいんだろうと困っているように見えた。

 

また、広州では、春節のときからほぼ100%の人がマスクをしていたし、消毒や人との接触を避ける行動などもほとんどの人が徹底したので、それも印象的だった。

 

広州の状況が「変わった」と強く感じたのは、2月下旬だった。それまでも、外にいる人は徐々に増え続けていたが、2月下旬になって、明らかに外の「音」が変わったからだ。外を歩くと、多くの人が行き交う横でたくさん車が走っていたし、働く人の音が”うるさい”ほどになっていたのが印象的だった。僕の泊まっていた場所は卸売り業者が多いのか、特に、大量の荷物を運ぶ人達の台車の音がうるさかった。でも、そんな喧騒も、今回ばかりは歓迎すべき復興の音だったのかもしれない。

 

この場所は1月下旬からしばらく閑散としていたが、徐々に人が戻ってきて、お店も開くようになった(3月上旬撮影)。乾物や海産物のお店が多かった。また、通りには多くの車や台車が行き交っていた。

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再開したお店で商品を見るおばあちゃん(3月上旬撮影)。

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この場所は、通りに面したお店だけではなく内側にもお店があったようだが、中に入ることは制限されていた(3月上旬撮影)。

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また、外に関して言うと、3月か4月からは、公園にいる人達の中にマスクをとっている人が増え始めていたことも印象的だった。特に、4月には夜の公園で、広場ダンスをしているパワフルなおばさん達を見かけるようになった。広場ダンスは、多くの人が密集して一緒に運動する3密の象徴のような行動なので、それをしている人達が出てきたことは、すごく大きな前進・変化に感じた。

 

夜の公園で広場ダンスに興じる中国のおばちゃんたち(4月上旬撮影)。マスクをしている人もいれば、していない人もいた。コロナ禍でずっとひっそりとしていた公園に広場ダンスの活気が戻ってきたことは、状況の改善を象徴していた。

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広州の中心部・花城広場で写真撮影をするカップル(3月中旬撮影)。中国ではカップルがこのような本格的な写真撮影をすることが人気で、普段であれば各地で見ることができる。1月下旬からの厳戒期にはこのような光景を見ることはなかったが、3月中旬に中心部にいた彼らを見つけた僕は、「本当に状況が変わったな〜」と感じさせられた。この写真からはわからないが、このエリアには他にも多くの人がいた。

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集団行動や人の移動がかなり活発になってきたことを見ていると、僕は、第二波がいつ来てもおかしくないなと危機感も持つようになっていた。でも、中国の状況が改善する流れは止まらなかったし、(結果として)その中でも第二波と呼べるような大きな振り戻しが起きなかったことは、単純にすごいことだ。

 

言うまでもなく、広州も僕が5月中旬に離れるまでには、かなり普通に戻り始めていた。それは間違いない。でも、閉鎖されたまま再開されないお店が多く残されていたことも事実ではあった。彼らは一体どこに行ったのかな?閉店したのかな。

 

公園で蹴鞠のような遊びを楽しむ人々(4月上旬撮影)。かなり多くの人が集まって一緒に運動していたが、マスクをしていない人も多かった。でも、このような感じでも第二波のような振り戻しは起こらなかった。

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広州には卸売り市場のような大きい市場が多いが、そのような場所は厳格に封鎖されている場所が多かった(4月中旬撮影)。しかも、そのような場所の封鎖は普通のお店などに比べると長かったように感じる。写真の場所では、稼働しているお店もあったが、周りは全部柵で覆われていた。

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コロナの間にどのような影響を受けていたのかはよくわからないが、5月上旬にこの水産市場を訪れたときは、どこも普通に営業している感じだった(5月上旬撮影)。ここに限らず、食べ物関係の市場は営業を続けていた場所が多い印象を受ける。

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観光地の状況(主に広州)

 

コロナ禍でも、広州の中心部・花城広場では毎日のように噴水のショーが行われていた(1月下旬撮影)。1月下旬のこのエリアは、ほとんどの観光地が閉鎖されていて閑散としていたので、ひとり歩く僕は寂しく感じていた。でも、そんな中で急にこの噴水ショーが始まったときは、なんとも言えない興奮と安堵感を覚えた。

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コロナが深刻化し、1月23日に武漢が封鎖されると、その直後から、中国各地の観光地が閉鎖されるようになった。2020年の春節は1月25日だったので、その前日の1月24日(大晦日みたいな位置付け)は様々なお祝いイベントが各地で行われるはずだった。でも、僕が春節イベントに参加する予定だったマカオでは全てのイベントが急遽キャンセルされ、北京などでもイベントがキャンセルされた。

 

人気のエッグタルト店に並ぶ人々(1月23日撮影)。コロナウイルスに関するニュースが大きくなってきていたので、マスクをする人も増えてきていた。このあと、みんな武漢封鎖のニュースを聞くことになる。

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広州にも、春節恒例の伝統行事・花市(路上に様々な記念品などを売る屋台が立ち並ぶ日本でいうお祭りみたいな感じ)が1月24日の夜中まで予定されていた。でも、コロナの状況を受け、中止にはならないものの、急遽かなり時間を前倒しにして終了することになった。僕は終了時間ギリギリに会場に行ったが、それでも花市にはかなり多くの人がいて賑わっていた(でも、花市に行くまでの道中には全然人や車がいなかった)。

 

広州の伝統行事・花市(1月24日撮影)。コロナへの警戒感は高まっていたが、それでも多くの人が来て楽しんでいた。このあと、18時には会場内の全てのライトが消され、花市は強制的に終了させられた(本当は夜中の2時までの予定だった)。ライトが消された後でも、出来るだけ多く売り切ろうとお店の人たちが頑張っていたのは印象的だった。ちなみに、この日以来こんなに多くの人が集まっているのは一度も見ることがなかった。

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花市が強制終了させられた後の広州の繁華街・北京路の様子(花市は北京路の横で行われていた)(1月24日撮影)。この日以降しばらく閑散となった北京路も、このときはまだ多くの人で賑わっていた。

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この日の感覚からすると、コロナは確かに厄介で、広州から少しの間動けないかもしれないと思った。でも、広州市内なら好きに観光地などを見て回ることもできると思っていた。

 

だから、僕は早速1月26日に、広州市内の観光に出かけた。僕がその日向かったのは、カトリック教会、博物館、旧租界地と、どれも広州の中では人気の観光地だった。でも、最初に行ったカトリック教会で僕は驚かされた。カトリック教会前の門が閉められていて、その門の内側にはこんな張り紙がしてあったからだ。

 

「新型コロナウイルスの感染拡大により、この教会は1月25日から閉鎖されることになりました。再開時期は未定です。」

 

いつもは多くの観光客で賑わっているカトリック教会が、無期限休業していたのだ。しかも、ほぼ同じ内容の張り紙は、博物館のチケット売り場にも貼ってあって、僕はがっかりした(休業するのはしょうがないと思うが、「無期限」というのが、各地の観光地巡りをしていた僕からすると困った)。

 

無期限臨時休業の張り紙とともに閉鎖されていた観光客に人気のカトリック教会(1月26日撮影)。5月中旬まで広州にいた間に何度も行ってみたが、他の観光地が再開しててもここだけはずっと閉鎖されたままだった。

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一方、旧租界地の沙面島は、陸から川で隔てられた島とは呼べないほど小さなエリアだが、ここは閉鎖されてはいなかった。でも、島と陸をつなぐ何本かある橋は2ヶ所以外全部封鎖されていて、その2ヶ所では警備員が検問所のように控え、通行する全ての人の体温を測っていた。沙面島は、かつてイギリスとフランスが租界地として多くの西洋建築を建てたことから、別に島の中を歩き回るだけでも美しい街並みを楽しむことができる。でも、やはり、いつもであれば中に入って見学できるような建物も、今回は閉鎖されていた。

 

沙面島には、いつも観光客と地元の人でにぎわう川沿いの公園がある。僕は、ここで歌やダンスに興じる人たちを観察するのが好きだったが、ここも、驚くほど誰もいなくシーンとしていた。

 

いつもならすごく多くの人で賑わう沙面島のメインストリート(1月26日撮影)。このときはとても人が少なかった。ここに来る前には閉鎖された教会と博物館も訪れていたが、ここまで来て、「こんな状況じゃもうまともに旅行することは無理だ」と痛感させられた。

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このように、コロナ初期の1月下旬から2月にかけて、広州市内の観光地は概ね閉鎖されていた。ただし、教会や博物館などの特定の建物ではなく、沙面島や北京路などのエリアは、いつでも開いてはいた。ただ単に、そのようなエリアでは開いている場所と閉まっている場所が混在している感じだった。

 

3月になると、コロナをめぐる状況は少しづつ好転し始めていた。だから、僕も3月16日にとうとう広州を出発し、中国旅を再開することにした。

 

その前日の3月15日、最後に広州を改めてまわっておこうと思った僕は、市内の観光地にでかけた。

 

まず、以前1月26日に行ったけど開いていなかった博物館に行った。実は、その博物館は西漢南越王博物館という場所で、かつての南越王の玉衣が展示されていた。歴史に興味のある僕は、これをどうしても見たかった。でも、このときも前と全く同じで、チケット売り場は閉鎖され、そこには無期限休業の張り紙がしてあった。

 

広州を出る前に絶対に見ておきたかったのでとても残念だったが、しょうがないので博物館を去った。

 

次に向かったのは、高層ビルなどが立ち並ぶ広州の中心部・花城広場だ。意外にもこちらにはとても多くの人が外にいて、にぎわっていた。その日はちょうどきれいに晴れてもいたので、僕は気持ちよくなってあたりを歩き回った。すると、前来たときは閉鎖されていた広州図書館が再開しているのを見つけた。広州図書館とは、ただの図書館ではなく、とても奇抜な建築の図書館なので、いつか中に入ってみたいと思っていた。

 

これはいい機会だ。僕は早速中に入ろうとした。でも、入れてくれない。すべての入館者は、事前にオンラインで時間を指定して予約・登録のようなことをしなければならないからだ。僕はその場でどうにかできるか試したかったが、閉館時間も早まっていたのか、もう時間がなかった。せっかく再開していたのに、こちらも残念。

 

しばらく閉鎖されていたものの再開していた広州図書館(3月15日撮影)。奇抜な建物の中に入って歩き回ってみたかったが、入るためには事前のオンライン登録のようなものが必要になっていて僕は入れなかった。

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気を取り直して、僕は次の目的地へ向かった。それは、広州の象徴としてそびえ立つ広州タワーだ。広州タワーは、僕がいた中心地からよく見えたし、そもそもコロナ初期のときからいつでもきれいにライトアップされていたが、それでも実際に展望台などが営業しているのかは全くわからなかった。でも、広州を出るのにこの象徴的な場所を逃す訳にはいかなかった。

 

1月下旬の花城広場から見る広州タワー(1月下旬撮影)。春節の飾りと広州タワーのライトアップは鮮やかだったが、人はまばらだった。

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Four Seasons Hotelのカフェバーから見る広州タワー(1月下旬撮影)。このカフェバーは、いつもこの絶景を見るために来る多くの人で賑わっているが、このときは誰もいなかった。ホテル自体にも全然人がいないようだった。

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広州の”見納め”に、いつもは遠くから眺めるだけだった広州タワーを登ってみることにした(3月15日)。このエリア(花城広場)には多くの人がいて、状況が改善しつつあることがよく感じられたが、広州タワーが営業再開しているかはよくわからなかった。

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広州図書館のエリアから川の対岸にある広州タワーまでは、地下鉄でたったの数分だ。そして、駅を出ると……こっち側にもたくさん人がいた。良かった、どうやら広州タワーは営業しているみたいだ。

 

広州タワーの下に近づくと、「広州タワー3月6日から営業再開」というポスターがあった。やった!間違いなく再開している。このうれしいニュースを伝えるポスターの前には、記念写真を撮っている人も何人かいた。

 

3月6日から営業再開したことを伝えるポスター(3月15日撮影)。やっと開いている観光地に行けたので、このポスターを見たときは嬉しかった。

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でも、チケット売り場に行くと、“普通には”開いていなかった。チケット売り場の入口にはヒモが張られていて、スタッフ達が観光客を足止めしている。どうやら、誰でも好きに入って観光できるという訳ではなく、まずはオンラインで健康状態を申請・証明し、そのあとにチケットを時間指定までして予約しなきゃいけないようだ。中に入れる時間は数十分(確か30分)おきくらいに区切られていて、混雑を避けるために観光客の数を一定以下に制限しているようだった。

 

僕はこんなことを何も知らずに来てしまったので、もし今日はもう入れなかったり、すごく待つことになったら困るなと不安になったが、そんな必要はなかった。オンラインでチケットを調べると、どの時間もまだ空きに余裕があったからだ。

 

だから、僕はすぐにチケットを予約し、なんとか広州タワーに入ることができた(チケットを購入できたことはいいものの、健康状態の申請・証明に手こずり、けっこう時間はかかった。)。入場制限をしていることもあり、広州タワーの中にはあまり人がいなかった。

 

展望台に上がるエレベーターに並ぶときは、一人ごとに2mは間隔をあけさせられ、一緒にエレベーターにのる人の数も少なくされていた。広州タワーには、室内と屋外の展望台があるが、このときは(より値段が高くどちらかというとオプションなはずの)屋外しか開いていなかった。おそらく、換気を気にして、室内は閉鎖したのだろう。

 

展望台に上がるエレベーターに乗るためには、しっかりと2mの間隔をとらされた(3月15日撮影)。このような制限はあったとしても運用がゆるいことも多いが、広州タワーでは厳格に行われていた。営業を再開しても色々な制限が残っており、まだまだ普通の状況から程遠いことは明らかだった。

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ただ、コロナはどうであれ、約450mの地点から見下ろす広州の景色は相変わらず美しかった。

 

次の日。僕は中国制覇を目指して旅を再開した。広州からまず向かったのは、南西にバスで約2時間の場所にある開平という小さな町だった。この町にある、碉楼という年季の入った西洋風の建物が目当てだった(世界遺産にも登録されている。)。でも、僕は実際に広州からバスで開平まで行ったが、現地のバスターミナルでコロナを理由に2週間の強制隔離か広州に帰るかの選択を迫られ、結局、広州にまた戻らされた。僕は、旅を再開することができなかった。

 

結局、コロナのせいで旅の再開は失敗はしたものの、僕が広州を離れて開平へ向かう直前の夜中、僕は血眼に各地の観光地の状況を調べていた。コロナの状況は各地で様々だったため、観光地の再開や閉鎖の状況もまちまちで、「本当に明日旅を再開して大丈夫なのか」、「本当に今の状況で旅はできるのか」と不安でたまらなかったからだ。

 

まず、僕が最初に目指した開平の碉楼は、時間制限がされていたようだったが、それでも再開はしていた。開平のあとは、僕は沿岸部の福建省、浙江省、上海、江蘇省などを山東省あたりまで北上する予定だった。この道中には、世界遺産など多くの見どころがあるが、ネットで調べる限りは大体の場所が再開しているようだった。ただ、やはり入場チケットを事前に予約しないとダメだったり、人数制限をしているような場所は多そうだった。また、調べても不確かな情報しか見つからず、まだ閉鎖しているのか、もう再開しているのかよくわからない場所も多かった。

 

僕は、中国人の友達とも旅の再開について相談していたが、そのとき彼が言っていたのは、「南方の都市の方が経済重視の土地柄だから、開いている場所は多いはず」という話だった。一方、彼は、「北方はコロナの状況や管理体制が厳しいから、絶対まだ行くべきじゃない」ということも言っていた。このように、中国と言ってみても、地域によって様々な違いがあることは興味深かった。

 

3月16日に旅を再開し、すぐにまた広州に戻された僕は、もう5月中旬に日本へ帰国するまで広州にとどまった。そして、以前2回も行ってみてダメだった博物館に3月下旬にまた行ってみたが、その時になってやっと再開していた。1月下旬には閉鎖されていたので、休業は2ヶ月くらいも続いたことになる。広州に来る観光客が訪れるような他の観光地も、3月以降のタイミングで基本的には再開していたように思う。でも、人気観光地の一つであるカトリック教会だけは、いつまで経っても開かなかった(少なくとも5月中旬まで)。

 

とても長くなってしまったが、このように、広州の観光地の状況としては、春節期からほとんどの場所が無期限臨時休業に追い込まれる一方、特に3月以降に順次再開している場所が多かった。他の都市について調べてみても、3月以降から何らかの形で再開している場所が多かったように思う。ただ、ほとんどの場所で、入場前にスマホを使って健康状態の登録・証明する必要があった。でも、これには中国の電話番号が必要なので、それを持っていない人にとってみれば(一時的に中国に来ていた外国人など)、観光地に限らずどこに行くのも難しかった。また、人気の観光スポットでは、チケットの事前予約制や入場人数の制限をしている場所が多かった。

 

実際、5月の初めは中国でも”ゴールデンウィーク”の休暇があるが、そのときは身動きがとれないほど多くの観光客で各地がにぎわっていた。でも、(都市によって程度は異なるが)外国人に対する管理体制は比較的厳しかったので、まだ外国人にとってはどこでも好きに旅行ができるという状況にはなっていなかった。

 

多くの観光客で賑わっていたゴールデンウィーク中の沙面島(5月上旬撮影)。全然人がいなくて閑散としていた少し前までとは対照的だった。この時期になると、マスクをしっかりとしていない人も多くなり、どんどん”普通”が戻りつつあった。

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色鮮やかにライトアップされた広州の高層ビル群(5月上旬撮影)。

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物資(医療品/その他)・食事(レストラン/出前)・物流

 

 物資(医療品)

 

マスクが売り切れだということを伝える張り紙をした薬局(1月下旬撮影)。僕のホテルの周りには多くの薬局があったが、全ての薬局の入口にこのような張り紙がしてあり、マスクを見つけることは不可能だった。

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世界では、何かしら問題が起きるたびに特定の物資がなくなることがある。コロナウイルスの問題の場合だと、マスクや消毒をはじめとした医療品がなくなった。

 

僕は中国にいて、それが一瞬で起きたことを見ていた。

 

そもそも、コロナウイルスの問題が本当に深刻に全ての人に受け止められるようになったのは、1月23日に武漢封鎖という衝撃的なニュースが飛び込んできてからだ。それまでは、確かに武漢からの不穏なニュースが流れてきてはいたが、それでも、僕たちは問題の深刻さがよくわからなかった。ただ、聞くところによると、問題は謎の肺炎だということなので、マスクをつけた方が良さそうだと思われた。だから、1月20日台に入ってからは、街中でマスクをしている人が急速に増え始めていた。

 

1月22日、僕は香港にいたが、街行く人の半分程度がマスクをしていた。それまでマスクをしていなかった僕も、このときからマスクをし始めた。ちなみに、僕が使ったマスクはM3マスクというもので、旅の出発前に北京で買い、旅の間ずっと持っていたものだった。北京では今でもたまには大気汚染があるので、日常的にM3やN95などの高性能マスク(日本では一回も見たことがない)を買うことができた。でも、まだマスクの着用率が半分くらいのときにそんな”ガチマスク”をしていると、香港中心部ではジロジロ見られたような気がした。

 

僕が使っていたガチマスク・3Mマスク。しっかりとしたマスクを持っていたことはラッキーだったが、このあと長い間同じマスクをずっと使い続けなければならなかった。

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1月23日、僕はマカオにいた。この日は、また昨日に比べてマスクをしている人が増えていた。僕は市内を観光しながら、街や人の雰囲気から事態が深刻化しつつあることを感じていたが、その象徴的な光景をホテルへの帰り道で見た。それは、暗い路地にズラーっとできていた長い行列だ。僕は、最初は特に気にせず、「なんか並んでるなー」とその横を通り過ぎた。でも、よく考えると、それは薬局に並んでいるように思えたので戻ってみると、案の定、彼らはマスクを求めて小さな薬局に殺到している人達だった。

 

「まじか、こんな状況になってきちゃったか」

 

僕は少し緊張感を感じながらホテルに戻った。そして、明日から行われる春節の祝賀イベントを調べようと思ったところ、武漢が封鎖されたことを知った。そして、マカオのイベントも全て中止になった。

 

「だから急にあんなに人が集まっていたのか。」

 

納得だった。

 

この瞬間から、医療品に対する需要は爆発的に増えていた。マスクを買いたくてもどこにも売っていない。そんな状況が始まった。不幸中の幸いとして、僕はすでにいいマスクを2個持っていたのでこの瞬間の心配はなかったが、このあと少ししてマスクを買い足そうと思ってもどこでも手に入らなかった。

 

1月24日、僕は武漢の封鎖を受けて、急遽、広州まで移動してきた。そして、終了時間が大幅に繰り上げられたもののなんとかまだ開催していた春節伝統の行事・花市(出店が並ぶお祭りのようなもの)を見に行った。すると、この日のマスクの着用率は、もうほぼ100%になっていた。事態が変化する速さにとにかく驚かされた。

 

ちなみに、この文をいま読んでいるあなたは、「マスクを買いたくてもどこにも売っていないはずなのに、彼らは一体どうやってマスクを手に入れたのか?」と思っていませんか?

 

正直、僕もそう思っています(笑)。本当に。彼らは一体どうやってマスクを手に入れたのか。100%の人が買って100%売り切れるなんてあり得ないですよね。謎です。

 

でも、手がかりは二つあった。一つは、花市のとき、路上にたくさんのマスクをビニール袋に詰めて売っている人が何人かいたことだ。見た感じ、彼らはマスク需要を見込んで転売している人のようだった。そして、彼らの設定している値段はかなり高かったようだが、それでも、マスクが必要な人達は買っているようだった。

 

花市の路上でマスクを売る人たち(1月24日撮影)。このとき以来マスクが売られているのはしばらく見なかった。

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また、花市から帰るとき、白衣を着た薬局のスタッフと思われる女性二人が、台車でマスクの入った大きな箱を運んでいるのも見た。そのマスクがどこに運ばれて、どのように扱われたのかはよくわからない。でも、もしかしたら、問題の表面化直後は、マスクが急激に品薄になったとはいえ、在庫が残っていた一部の場所ではまだマスクを手に入れることができたのかもしれない。いずれにしても、それ以来僕がマスクを見ることはしばらくなくなった。また、このとき、知らないうちに消毒液や手袋なども瞬く間になくなっていたようだ。

 

花市終了後の路上でたまたま目撃した多くのマスク運ぶ人たち(1月24日撮影)。どこにもマスクがなかった状況を考えると、これはまさに宝の山のようだった。

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マスクと消毒液が売り切れだと伝える張り紙をした薬局(1月下旬撮影)。どの薬局も同じ状況だった。

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医療品がしっかりと回復したのは、それから1ヶ月ほど後の2月中旬〜下旬くらいだった。このころになると、それまで店頭に「マスク・消毒液品切れ」と張り紙をしていた薬局に、マスクと消毒が並び始めた。マスクは主に普通のサージカルマスクやKN95という準医療用マスクだった。また、消毒液は、即席でつくったのか、ペットボトルに入ったアルコールっぽいものが多かった。

 

ちなみに、僕の見つけた限りでは、一番早い場所だと2月9日にマスクを販売している薬局があった。しかし、この時点では、ゲリラ的にマスクが1000個くらいだけ入荷したので、明日の朝9時から、一人5枚まで限定で販売するみたいな状況だった(つまり、みんな5枚買うと、200人しか買えない)。だから、多くの人にとっては、マスクを手に入れることがまだ難しかった。

 

2月中旬〜下旬に話を戻すと、このとき、消毒液は基本的に誰でも好きに買うことができた。でも、マスクに関しては政府が厳格なオンライン管理体制をとっていたので、身分証を使用した予約制でしか購入することができなかった。ただ、マスクの供給量は目に見えて増えていたので、そのような制限の中でも人々はマスクを買うことができたように思われる。

 

1ヶ月以上も2つのマスクだけ使ってボロボロにしていた僕も、そろそろマスクを新しく買いたい時期だった。だから、僕も薬局の店頭にあったQRコードを読み込み、マスクの購入予約をしようとした。でも、何度やっても身分証がパスポートしかない外国人だとうまくいかなかった。それでは困るので、スタッフに外国人ならどうやってマスクを買えるのかと聞いたが、彼らは、「システムがダメならどうしようもないよ」とだけ言って、特に助けてくれなかった。

 

正直、それまでに日本をはじめとした世界中から中国に対する多くの支援が寄せられていたことを考えると、中国にいる外国人に対するこのような扱いはとても残念だった(オンライン予約システムは都市によって異なるかもしれないので、場所によっては問題のなかった外国人もいたとは思う)。

 

だから、2月中旬〜下旬の時点では、外国人の僕では依然としてマスクを購入することができなかった。でも、3月16日に旅を再開しようと思っていた僕は、それまでには絶対にマスクを手に入れる必要があった。

 

旅再開直前の3月中旬、このときも2月中旬〜下旬と同じで、多くの薬局でマスクの予約販売をしていた。僕は、改めてマスクを買えるか試してみたが、やはりダメだった。かといって、あきらめるわけにもいかないので、薬局を片っ端から訪問し、予約なしでもマスクを買えるか聞いてまわった。

 

すると、何軒かまわったところで、予約なしでもマスクを買えるお店を発見した。しかも、比較的高性能なKN95マスクだ。僕が、「予約なしでもマスク買える?」と聞くと、彼らはレジ裏の見にくい位置に置いてあったマスクを出して「買えるよ」と教えてくれた。この時点で、予約なしのマスク販売が完全に禁止されていたかはよくわからない。でも、何がどうであれ、やっとマスクを購入できて僕は安心していた。

 

3月中旬以降の医療品の状況だが、これはもうあまりよく覚えていない。気にかける必要がなくなったくらい、マスクも消毒液も十分に供給され、誰でもいつでもどこでも買えるようになったからだ。特に、4月前後からは、薬局だけではなくコンビニや雑貨屋などでもマスクや消毒を買えるようになった。また、4月からは、ほとんどのお店でマスクの予約も必要がなくなるとともに、値段も普通に戻りつつあった。

 

僕は、世界の工場とも言われる中国の生産供給体制の強さを見たような気がした。一方、自前の生産供給体制が弱かった他の国は、まだまだ物資不足に苦しんでいた。

 

物資(その他)

 

一般人が行くようなお店で医療品以外の物資が不足しているようなことは全く見たことがなかった(3月上旬撮影)。

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これは本当に短い答えだが、医療品以外の物資がなくなった例は、生活レベルだと全く思い当たらない。食料品や生活用品など、街中を見る限りどれについても常に十分にあって問題なかった。ただ、ビジネスレベルの話でいうと、もしかしたら何かの部品や製品が届かないなどの問題があった場所もあるかもしれないとは思う。

 

マスクの着用や検温などは求められたが、それでも食料品を売る市場は基本的にずっと開いていた(1月下旬撮影)。コンビニも基本的に開いてはいたが、スーパーの場合、臨時休業している場所も少しはあったように思う。

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食事(レストラン/出前)

 

店内での飲食が禁止されて閑散とするスターバックス(2月下旬撮影)。テイクアウトだけはすることができた。しばらくの間、どのレストランもこんな状態だった。

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コロナウイルスのどの段階にあっても、広州ではレストランの休業命令のようなものはなかったと思われる。常に、開いているレストランはあったからだ。でも、2月上旬か中旬から3月中旬くらいまで、広州のレストランでは店内での飲食が禁止にされた。そのため、しばらくの間、レストランはテイクアウトのみで営業していた。僕も、長い間、ずっと室内でテイクアウトのものを食べていた。

 

それを可能にしたのが、出前(中国語で外卖という)だった。出前は驚くべきことに、春節のときからコロナの厳戒期・安定期までずっと一貫して、全く問題なく使うことができた。いつ何時にオンラインで注文しても、すぐに運んできてくれる人がいた。感染が拡大している間は、特に人との接触を減らす必要があったので、このようなサービスが常に生きていたことはとても重要なことだった。単純に、すごい!出前の人達、お仕事ありがとう。

 

ただ、レストランも出前も常に営業していたとはいえ、レストランに関しては、シャッターを閉めたまま再開していないお店も多かったのは印象的だった。それは、もう閉店したのか、ただ休業しているのかはわからないが、コロナウイルス問題が経済に大きな影響を与えていたことは明白だった。

 

店内での飲食が再開されたレストラン(4月上旬撮影)。こんなに多くの人がレストランにいるのを見るのは久しぶりで印象的だったから撮影してしまった。

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ちなみに、これはレストランに限った話ではないが、ホテルの人から聞いた話だと、シャッターを閉めっぱなしのお店の多くは、コロナ禍による経済悪化でテナント料が払えなくなり、廃業したものだと言っていた。そして、そのような状況に置かれた多くの人は、地元なりに帰って広州を離れたとも言っていた。コロナからの回復が目まぐるしい中国でも、その影響は間違いなく様々な方面に及んでいるようだ。

 

物流

 

広州市内のあらゆる場所が柵で封鎖されていたので(=コミュニティごとの出入り口を制限して、人の管理を厳格化するため)、物流の”ラストワンマイル”は大変そうだった(2月下旬撮影)。柵の向こうにも多くの人が住んでいるが、運び手は柵のところまでしか行けないので、受け手を電話で呼び出し、柵ごしにものを渡している姿はしばしば見られた。

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項目として立ててみたものの、大して書ける情報は持っていない。ただ、コロナ禍(2月や3月)に中国国内のオンラインショッピングをしたとき、商品を購入することはできたが、いつもより到着までにかなり時間がかかったように感じた。大抵は数日程度で届くはずなのに、このときはものによっては、数週間も届かなかった。なので、理由はよくわからないが、コロナ禍の中国国内の物流にはそれなりの影響が出ていたように思われる。一方、時間が経つにつれ(4月や5月)、徐々にスムーズに商品が送られてくるようになったとも感じたので、少しずつ回復もしていたのかもしれない。

 

ちなみに、国際物流(一般人が使うもの)には、間違いなく大きな影響が出ていた。まず、China Postは夏前?くらいまで国際配送を停止していたようだ。そのため、中国に荷物を置いて脱出していた外国人たちが、なかなか荷物を自国に回収できずに困っていた。China Postが使えない間も、少なくとも1社(中国系)は国際配送をしていたようだが、かなり高額で使いやすいものではなかった。

 

また、これも情報が錯綜していたが、中国から海外へ医療品(マスクなど)を送ることも規制されていた。

 

宿泊していたホテルの状況

 

僕がコロナ禍の広州でずっと泊まっていたホテルの店長。店長とは何回も印象的なやりとりがあったし、何回もお世話になった。

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春節期の中国では、実家に帰省する人に加え、多くの人が国内外を旅行する。そして、広州も、本来であれば多くの観光客が集まる場所だ。だから、僕が泊まっていたホテルも、春節のときにはたくさんの予約が入っていたらしい。でも、春節直前にコロナ問題の深刻さが国中に知れ渡ったことから、ホテルの予約はほとんど全てがキャンセルされていた。特に、団体旅行が禁止されたことから、団体客の予約が全部なくなっていた(だから、町中にも団体旅行客が皆無で、観光地も驚くほど静かだった)。

 

コロナの最初の時期(1月下旬)、ホテルの店長はまだそこまで事態を深刻に見ていなかったようで、「まあしょうがない」くらいの感じだった。でも、書き入れ時の春節の客が全部いなくなっただけではなく、2月に入るとむしろみんな引きこもってしまい宿泊客は全く増えず、僕以外は誰もいなかった。そんな厳しすぎる状況になったとき、僕と話していた店長は、「影响太大了!(影響が大きすぎる!)」と誰も来ないホテルの入口から外に向かって吐き出していた。このフレーズはすごく印象的でよく覚えている。

 

予約が全部なくなり、新しい客も全く来ない中では、ホテルだけ開けて従業員を置いていても無駄だ。だから、このホテルは、2月上旬には急遽休業することになった。しかも、ビジネスできる環境にいつ戻るかわからないので、再開時期が読めない無期限臨時休業の状態だ。

 

でも、僕はまだそのホテルに滞在していた。まだ滞在し続ける必要もあった。だから、ホテルを閉じるときの店長は、フロントに来て驚いた様子のそんな僕にこんな感じのことを言ってくれた。

 

ホテルの店長)「僕たちはこのホテルを閉めることにした。でも、君は大丈夫。休業中もちゃんと泊まり続けられるようにしてあげるから!スタッフはほぼみんないなくなるけどね。」

 

そう、コロナでホテルを休業するとなっても、店長は僕だけを特別にホテルに泊まれるようにしてくれた。こんな各地が厳戒態勢になっている中、外に投げ出されたら困る。僕は本当に助けられたし、店長に感謝していた。

 

ホテルの店長)「あ、でも、予約サイトからは全部予約できなくなるから、これからはフロントでよろしくね。」

 

僕)「わかった。いくら払えばいいの?」

 

ホテルの店長)「(正規料金の)この値段」

 

僕)「あー…そうだよね。」

 

正直、店長が教えてくれた正規料金は、貧乏旅をしていた僕からすると少し高いものだった。それまでは、オンライン予約サイトを使っていたので、何割も安い料金で予約できていたからだ(そもそも、ホテルのフロントで払う正規料金はたいていの場合高く設定されている)。少ししかいないのであれば多少高くてもしょうがなかったが、コロナの中でどのくらい広州にいるかもわからない中、出費もなるべく抑えたかった。

 

だから、僕は店長に相談した。すると、僕の状況やそれまで払っていた料金を見た店長は、多少値引きをしてくれることになった。ありがとう店長。僕は店長のおかげで、コロナの中でも安心して滞在することができた。

 

ホテルの臨時休業は、結局、2月上旬から3週間ほど続いた。その間、ホテルのスタッフは1人しかいなく(その建物の管理も兼ねていた)、ホテルに泊まっている人は、もちろん僕しかいなかった。不思議な感じだった。

 

2月下旬にはホテルが再オープンした。でも、中国が厳戒態勢にあることに変わりはなかったので、結局、ホテルに来る新たな宿泊客はほぼ皆無だった。たまに、小さい子供を連れた家族連れが泊まりに来ることがあったが、それは、ホテルの近くに小児科医院があったからだ。旅行者に見える人は誰もいなかった。

 

そんな状態は、3月、4月と、ほぼ同じだった。僕は、5月中旬にやっと広州を離れたのでそれまでのことしかわからないが、少なくとも、それまでには多少泊まる人が増えて来てはいたものの、全体として見るとまだまだ閑散としていた。

 

ホテルの状況は、大体こんな感じだった。

 

最後に、ホテルで行われていた「コロナ対策」について書いておきたい。

 

まず、1月下旬から、エレベーター内のボタン横にはティッシュが備え付けられて、直接ボタンを触らないでいいようにされていた。また、ホテルの建物(ホテルだけではなく、住民もいる)の出入り口にスタッフが検問所のように控え、出入りする全ての人の体温を測っていた。そのとき、建物内にいる全ての人をまとめたパソコン上のデータベースか紙の名簿のようなものに、健康状態を記録もしていた。このようにして、異変のある人がいないか調べているようだった。このようなやり方には、プライバシーの問題もつきものではあるが、それでも、徹底的に感染の疑いのある人をあぶり出すためには効果があっただろう(単純に、部屋に完璧に引きこもってでもいない限り、幸か不幸か、少しでも異変があると見つかってしまう)。

 

ちなみに、エレベーター内のティッシュは、5月に僕が広州を離れるときでもずっとあった。でも、検温と消毒は、1月下旬から3月になるくらいまでは基本的にしっかりやっていたが、そのあと、中国での状況が徐々に落ち着いてくると、やったりやらなかったりと運用がゆるくなっていった。

 

エレベーター内のボタン横に備え付けられたティッシュ。

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「マスクをして、出入りのときは体温検査をしてください!」と書かれた張り紙がエレベーター内に貼られていた。

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感染症対策(主に広州と北京大学)

 

建物を出入りする人の管理を厳格にするため、建物への入口を数カ所に絞っている場所が多かった(3月上旬撮影)。このような措置は、コロナ初期の1月下旬から長い間続いていた。

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中国のコロナウイルス対策は、武漢封鎖(1月23日)の直前から始まっていた。

 

まず、大陸ではないが、僕が一番最初に感染症対策に出くわしたのはマカオだった。僕は、1月23日にマカオ市内を観光していたが、そのときから、どの観光地に行ってもマスクの着用と体温検査が求められるようになった。場所によっては、混雑を緩和するために人数制限をする場所も出始めた。前日の1月22日までは香港にいたが、そのときはまだこのようなことはなかったように思うので、まさに1月23日辺りから最初の感染症対策は始まったと思われる。

 

次のある意味での感染症対策は、大規模イベントの中止措置だろう。1月23日に急遽、武漢が封鎖されると(これもある意味では感染症対策か)、その日のうちにマカオや北京などで次の日から予定されていた春節祝賀イベントはことごとく中止にされた。多くの人が集まり、感染の拡大が懸念されるからだ。これはしょうがないことではあるが、春節イベントを見るのに合わせてマカオに来ていた僕からすると、とても残念な決定だった。

 

1月23日・24日が過ぎると、中国各地は完璧にコロナ厳戒体制に突入した。そうなると、まず前提として、99.9%の人がマスクをするようになった。マスク義務化の法律がつくられたのか、呼びかけがあったのかはよくわからないが、それでも、ほぼ全ての人がしっかりとマスクをしていた。

 

マスクはもちろんだが、ゴム手袋をしている人も多かったのが印象的だった(4月上旬撮影)。

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また、体温検査と消毒も徹底されるようになった。どのお店や建物に入るにしても、体温検査と消毒をするよう求められるようになった。例えば、僕の泊まっていたホテルでは、建物内にいる全ての人の名簿を作成し、毎日体温検査をしていた。そして、エレベーターの中には、ボタンを直接触らないでよくするために、テッシュが備え付けられていた。

 

地下鉄に乗るのにも全ての人が体温検査を受けなければならなかった(1月下旬撮影)。

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病院の入口では警備員が控え、中に入る全ての人の体温検査をしていた(1月下旬撮影)。

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中国では居住エリアが「小区」と呼ばれる小さなコミュニティに区分されているが、その小区ごとに入口が数カ所のみに制限され、入口では全ての人が体温検査を求められた(3月上旬撮影)。このような措置は、1月下旬か2月上旬から広州のかなり多くのエリアで行われていたように思う。

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中国では居住エリアが「小区」と呼ばれる小さなコミュニティに区分されているが、その小区ごとに入口が数カ所のみに制限され、入口では全ての人が体温検査を求められた(2月下旬撮影)。このような措置は、1月下旬か2月上旬から広州のかなり多くのエリアで行われていたように思う。

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中国では居住エリアが「小区」と呼ばれる小さなコミュニティに区分されているが、その小区ごとに入口が数カ所のみに制限され、入口では全ての人が体温検査を求められた(3月上旬撮影)。このような措置は、1月下旬か2月上旬から広州のかなり多くのエリアで行われていたように思う。

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中国では居住エリアが「小区」と呼ばれる小さなコミュニティに区分されているが、その小区ごとに入口が数カ所のみに制限され、入口では全ての人が体温検査を求められた(3月上旬撮影)。このような措置は、1月下旬か2月上旬から広州のかなり多くのエリアで行われていたように思う。

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中国では居住エリアが「小区」と呼ばれる小さなコミュニティに区分されているが、その小区ごとに入口が数カ所のみに制限され、入口では全ての人が体温検査を求められた(3月上旬撮影)。このような措置は、1月下旬か2月上旬から広州のかなり多くのエリアで行われていたように思う。

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出入り口を数カ所のみに制限された小区では、入口以外の路地が全て柵などで封鎖された(2月下旬撮影)。

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封鎖された内側で商売をしていた人が、しょうがなく柵越しに商売をしていた(2月下旬撮影)。コミュニティのブロック化と封鎖は人の管理には効果的だったかもしれないが、封鎖された内側の人々にとっては、大変な生活になっただろう。

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彼らは柵越しに魚を販売していた(2月下旬撮影)。

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コロナの予防について様々なポイントが書かれた啓発ポスター(1月下旬撮影)。武漢封鎖から1週間も経たないうちにこのようなポスターを作成し、街中の様々な場所に貼っていたスピードは印象的だった。

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人の混雑を緩和するため、観光地は徹底的は休業に追い込まれたし、中国人があんなに好きな団体旅行も禁止された(しかも一番旅行シーズンの春節期間中)。また、広州では2月上旬か中旬から3月中旬にかけて、レストランでの店内飲食も禁止された。

 

このような状況の中、本当は1月末までだった春節休みは多くの場所で1週間前後(?)延長された。これも人の移動や混雑を緩和するためだ。そのため、出稼ぎ労働者が地元に戻り、しかも観光客も来なくなった都会の静寂は、しばらく続くことになった。延長された春節休みが終わった後も、全ての仕事がすぐに再開とは行かなかったようなので、すぐに各地が人でごった返すようなことはなかった。

 

コロナ禍により多くのレストランが臨時休業に追い込まれた(1月下旬撮影)。また、春節の延長などもあり、予定されていたよりも長い期間休業していた場所が多かった。

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コロナ禍により多くのレストランが臨時休業に追い込まれた(1月下旬撮影)。また、春節の延長などもあり、予定されていたよりも長い期間休業していた場所が多かった。

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このように、中国は初動にインパクトのある施策をどんどん打っていったように思う。これは、事態をそれだけ深刻に見ていたことや、むしろ最初の段階で徹底的に全てを止めることによりなるべく早く回復を目指していたことの現れだろう。一方、このような措置は効果的かもしれないが、日本のような民主国家では世論の反発も大きくなかなか取り入れることが難しいだろう。

 

また、中国が力を入れていたのは、感染の恐れがある人の徹底的なあぶり出しだろう。具体的な時期は覚えていないが、確か武漢封鎖から1ヶ月経ったか経っていないかの2月中には、健康コード(中国語では健康码)というオンライン上のミニプログラムが急速に浸透した。これは、個人個人が、自らの個人情報に加え、健康状態や最近の行動履歴など(武漢のある湖南省に行ったことがあるかとか)を登録するものだった。これにより、個人が安全かリスク有りかを判断し、安全なら緑の画面が、リスク有りなら赤の画面が表示されるようにできていた。

 

そして、この使用方法だが、ある時期から、様々な商業施設や観光地、長距離移動手段(飛行機や高速鉄道、バスなど)などの入場時にこの健康コードの提示を求められるようになった。その際、緑の画面を表示し、自分は安全だと証明しなければ中に入れてもらうことができなかった。つまり、赤の画面でリスク有りと見なされてしまうと、いろいろな問題が起きるのだ。もちろん、単純に様々な場所に入れなくて困ることは間違いないが、だからといって、赤の画面イコール、コロナの検査や強制隔離に連れていかれるのかはよくわからなかった。

 

例えば、僕が広州からハルビンを経由して日本に帰国しようとした際、空港の入口でも健康コードの提示が求められた。そのとき、僕はずっと広州にいたので緑の画面を示せて問題なく中に入れたが、たまたま居合わせた他の日本人は、他の都市から来たからなのか画面が赤くなってしまっていた。すると、空港の警備員もどうすることができず、彼が空港に入ることを長い間阻止していた。ただ、彼が危険地域に行ったという履歴もなかったので、結局、色々な人に画面を緑にするため相談して入力内容を直したりしていると、どこかのタイミングで緑が出るようになり、彼はやっと空港内に入ることができた。

 

さらに、健康コードを使っていないレストランなどでは、店内飲食をするとなると名前や電話番号などの個人情報を入口にある名簿に記入するよう求められることも多かった。これも、もし客の中に感染者が判明した場合に、芋ずる式でリスクのある人を全て割り出し、隔離など適当な措置をするための対策だろう。

 

レストランの店内で食事するために個人情報を記入するおじいさん(4月上旬)。中国でのコロナの状況は良くなってきていたが、それでもこのような措置をしている場所は多かった。

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このように、中国の感染症対策は、とにかく徹底的だった。家を一歩出れば、ありとあらゆる場所で体温と健康コードをチェックされ、もし周りに感染者がいたとしても自分にまで紐づけられる可能性がある。そのため、感染の恐れがある人が見つからないのはほぼ不可能だ。

 

地下鉄の入口に設置されたサーモグラフィー(1月下旬撮影)。地下鉄を使う全ての人がチェックされていて、少しでも異変があると見つかってしまう。

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ショッピングモールの入口に設置されたサーモグラフィー(3月下旬撮影)。この場所を通り過ぎる全ての人がチェックされていて、少しでも異変があると見つかってしまう。

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上のサーモグラフィーで撮影されると、こんな感じに人々の状態が画面で映されていた(3月下旬撮影)。

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それは、もちろんプライバシーの問題などを含んでいたかもしれないが、感染症対策としてはとても強力だったことも否めないだろう。ちなみに、日本人や欧米人などなら、このようなプライバシーを侵害し得る方法はあまり受け入れられないだろうが、中国人はプライバシーに対する意識が比較的弱いことや、そもそも感染症阻止という実益を重視する傾向がある(ように僕は感じる)ので、このような対策に対する批判的な見方はほぼ見なかった。

 

とにかく、良くも悪くも、中国の徹底ぶりには感心させられた。そして、このような徹底的な対策を目の当たりにしている人からすれば、中国で感染が収まり、社会経済活動が再開しつつあることは全く不思議ではない。一方、例えば、アメリカで最悪な状態が全然終わらないことも、残念ながら当然に感じる(←これこそまさに中国人がアメリカなどに感じていることであり、だからこそ自国への自信を強めているのだろう)。

 

また、ちなみに、このとき僕は北京大学大学院にまだ籍を置いていたが、北京大学も独自にオンライン上の健康報告ページを作成し、中国国内外にいる全ての学生に、毎日健康状態(体温や感染者との接触など)を報告するよう義務付けていた。しかも、コロナ禍でも北京大学キャンパス内の寮にはある程度の学生が残っていたが、彼らは1月下旬から春先(4月か5月?)くらいまで、キャンパスを出ることが全く許されなかった。厳密に言うと、キャンパスを出ることはできたが、そうするともう中に入れてもらうことができなかった。

 

つまり、学生たちは何ヶ月間もキャンパス内で事実上の隔離をされなければならなかったのだ。これは、感染がある程度拡がっていた北京市内に、学生が出て行って感染するリスクを防ぐためのものだったらしい。しかし、いくら北京大学のキャンパス内に食堂やスーパー、コンビニ、美しい庭園などがあったとしても、これは本当に本当に憂鬱なきつい体験だったと思う。僕の友達も何人かキャンパス内に残っていたが、本当につらそうだった。

 

北京大学の学生が毎日健康情報を登録するよう求められたオンライン上のページの画面。学生がしっかりと報告しなくても問題はなかったが、少なくとも学校はこのようにして学生の健康状態などを把握しようとしていた。

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外国人に対する管理体制

 

コロナの影響で休業を余儀なくされた外国人のレストラン(4月中旬撮影)。広州市内の状況が普通に戻りつつある中でも、アフリカ系外国人などが集まるリトルアフリカではほとんどのお店が閉鎖されていた。

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コロナ禍の広州では、コロナ対策にあたって、まずは中国人も外国人も含めて、誰がどこにどのような状態でいるのかに関する調査がされていたようだ。僕がホテルに泊まっていると、2月の早い時期にはフロントに呼び出され、個人情報やここ最近の行動履歴をまとめる調査票のようなものを書くように指示された。このホテルの建物には一般人も住んでいたが、これは、どうやらその建物内にいた人たちみんなに依頼されていたようだ。いずれにしても、このように集めた情報によって、感染リスクのある人を割り出すとともに、それからの感染対策(日々の体温検査)などが進められていた。

 

また、僕が1月下旬から5月中旬まで広州にいた間、僕のところには警察が3回訪問してきた。毎回、彼らはホテルの店長かスタッフに連れられて僕の部屋までやってきたが、それは、僕のような外国人がこのホテルにいることが、チェックインのときに登録する宿泊システムや調査票で提出した情報でわかったのだろう。そして、僕は彼らに身分証(パスポート)をチェックされてからは、これまでの行動履歴を詳細に聞かれ、これからはどうするのかと今後の予定も確かめられた。

 

また、少なくとも1回目(2月)と3回目(4月)は、警察だけではなく、医者と看護師も同行していた。これは、医者と看護師が僕の体温を測ったりして健康状態をチェックするためだった。

 

どの訪問に対しても、僕は彼らに求められるように対応し、問題なく終わった。だから、1月下旬から5月中旬までの間、僕は安全かつ自由にこのホテルに滞在し続けることができた。

 

でも、外国人に対する管理体制は必ずしもゆるくはなかった。例えば、僕に特に関係するものとしては、ある一定の間(大体2月〜3月の間だったと思う)、広州に新たに入ってきた全ての外国人は2週間隔離されるという措置があった。そのため、普段なら外国人を受け入れられるホテルも、その期間は、外国人を宿泊させることができないとされていた。しかも、外国人とは外国から来た人に限るのではなく、中国国内のどの都市から来たとしても外国人というだけで問答無用で隔離されるとのことだったから困った。

 

また、この措置で特に訳がわからなかったのが、中国国内の他の都市から広州に来た外国人は隔離する一方、同じ条件で広州に来た中国人は隔離されないという点だった。だから、ホテルのスタッフからこの話を聞かされて驚いた僕は、こんなことを聞いてみた。

 

僕)「じゃあ、例えば、深センに中国人と外国人の夫婦がいたとして、それで彼らが、広州に遊びに来るとしよう。そのとき、彼らがこのホテルに来たらどうするの?」

ホテルのスタッフ)「中国人の方は泊まれるけど、外国人の方は泊まれないよ」

僕)「いやいやいや、でもそれおかしいじゃん。彼らはそれまで同じ都市の同じ家に一緒に暮らしてるんだよ?」

ホテルのスタッフ)「でも、それがルールなの」

僕)「じゃあ、ここに泊まれない外国人の方はどうなるの?」

ホテルのスタッフ)「強制隔離用のホテルに行くしかないよ」

 

これは、本当に訳がわからず、理不尽で、意味のないことだと思った。でも、そんな風に一時期は運用されていた。

 

僕は知らなかったが、スタッフに聞いてみると、実際に3月?に外国人(フィリピン人)がこのホテルに来たときは、宿泊拒否をしたと言っていた。そのときも僕はホテルに滞在していたが、それは、僕が「広州に新たに入って来た外国人」ではなく、その措置が始まる前からずっと同じ場所にいたから平気だったらしい。

 

でも、僕は、3月中旬に旅を再開しようとして一度このホテルをチェックアウトしたが、結局、旅をすることはできずにその日のうちに同じホテルへ戻ってきたことがあった。このとき、僕は無事にまたこのホテルに泊めてもらえることになったが、実はこれも危険なラインだったらしい。

 

というのも、僕は普通に戻れたつもりでいたが、ホテルの店長曰く、僕が新たにホテルの宿泊システムで登録されるなり、警察から何回も問い合わせがあって対応しなければならなかったらしい。そして、店長はなんとか僕の事情やこれまでの滞在歴を説明してくれて問題を解決してくれたが、もし僕が広州を出たその日のうちに戻って来ていなければ、強制隔離用のホテルに入れられるところだったという。危なかった。

 

とにかく、僕は結果的に大した問題にはあわなかったが、コロナ禍における外国人に対する管理、特に宿泊に関しては厳しい面もあった。

 

また、広州では、一つ特殊な例としてアフリカ系外国人に対する差別問題があった。これは、アフリカ系外国人と中国当局で認識に対立があるが、大まかな話としては、広州にいたアフリカ系外国人の多くが正当な理由がないと考えられるにもかかわらず、2週間の強制隔離をさせられたという出来事だ。そのきっかけは、広州のアフリカ系コミュニティでコロナ感染が拡大しているという噂が広まったことや、コロナに感染したアフリカ系外国人が当局の指示に従わない行動をしたことなどにあるとされる。そして、中国における多くのアフリカ系コミュニティがこの問題に懸念を表明してからは、欧米やアフリカ諸国による中国への批判が高まり、中国との間で外交問題の様相を呈していった。

 

外国人の隔離措置自体は、上にも書いたように、僕も直面し得る問題だった。でも、本来これは、「広州に新たに入って来た外国人」に適用されるとなっていたはずだ。だから、このアフリカ系外国人に関する問題でおかしかったのは、彼らがずっと広州にいたにもかかわらず、「アフリカ系」という理由だけで(中国側はコロナ対策上の必要性を主張するが、少なくともアフリカ系の人たちはこう思っていた)強制隔離されたことだ。

 

この問題が起きていたとき、僕は広州のアフリカ系コミュニティがあるエリアから比較的近い場所に滞在していた。僕も外国人だ。でも、僕は隔離されなかった。一方、僕と同じ条件にあったはずのアフリカ系外国人は隔離されたりしていた。

 

この問題については改めて他の記事で書くことにするが、とにかくポイントとしては、コロナ禍における外国人に対する管理体制には、厳しいものもあったということだ。

 

数カ所の入口以外全て封鎖されたリトルアフリカ(4月中旬撮影)。必ずしもリトルアフリカに限った話ではないが、街の状態が普通に戻りつつある中でも、このように封鎖されている場所は多かった。

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中国人の自国と外国に関する見方とその変化

 

武漢のある湖北省から戻る人を歓迎するポスター(4月上旬撮影)。武漢や中国の状況は中国国内外の注目を集めたが、パンデミックのホットスポットはすぐに中国から他の国々へ移った。一方、中国はコロナからの回復へ進み、対照的な結末となった。

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コロナウイルスに関連して、中国人の自国(中国)や世界に対する考え方がどのように変化したのかについて書いておきたい。あんなに大きくて多様な国の人達を、「中国人の考え」として一概に言うことはできないが、それでも、僕が感じた変化は記録しておくに値するおもしろいものだったと思うからだ。

 

まず、コロナ禍の初期としては、多くの中国人が、「中国(あるいは武漢)やばいかも!」と感じていたのではないだろうか。中国にいる人としては、武漢が封鎖されたというニュースが電撃的に入ってきて、全てが急変したことは衝撃だったからだ。例えば、一番最初は「お客さん減って困ったけど、まあ大丈夫だろ」みたいに余裕があったように見えた僕が泊まっていたホテルの店長も、すぐに事態の深刻さに気がついて、「影响太大了(影響が大きすぎる)」と嘆いていた。

 

広州の中心部にあるビルの上には、「武漢頑張れ(武漢加油)」というメッセージが掲げられていた(1月下旬撮影)。このときは、中国も世界も武漢に注目し、応援している段階だった。

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広州の繁華街・北京路の電光掲示板に掲げられた「武漢頑張れ(武漢加油)」というメッセージ(1月下旬撮影)。広州の象徴・広州タワーと武漢の象徴・黄鶴楼の写真を並べているのが印象的。

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コロナの初期にネットで話題になったイラスト。”病気”になった中国を世界中の国が応援している。その中でも、特に、日本が一番近い位置で中国を”看病”しているのは興味深い(確かに日本から中国へは大きな支援が寄せられ話題になった)。このとき、中国も世界もまさか立場が完璧に入れ替わったりとか、しかも世界の方がもっと痛い目を見るとかは思ってもみなかった。

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このときの中国人の心情を表す表現として、僕の感覚としては「悲観的」や「困惑」が適しているように思えた。一方、共産党など政治に対する見方は、必ずしも「批判的」には感じられなかった。これは、みんなが政治を公に批判することを避けていたり、そもそもその習慣がなかったり、あるいは批判していたとしてもそれが消されていたのかもしれない。実際、それらの可能性は大きい。でも、僕でも感じるほど大きな政治や国家に対する批判はなかったように思った(みんなの本心は何だったのだろう)。

 

一方、すごく印象的だったのは、コロナウイルスに早い段階で警鐘を鳴らしたにもかかわらず地元当局に処分された医者・李文亮の死に対して大きな批判が巻き起こったことだった。言論統制が厳しい中国では、センシティブな問題に対する批判を公に見ることは少ない。とても言いづらいからだ。

 

でも、李が死んだときは、びっくりするほど多くの人がWechatのモーメンツ(Wechatは中国版ラインのようなアプリで、モーメンツはFacebookやTwitterのように好きに投稿できるフィード機能)に彼の死に関する批判的な文や画像を上げていた。僕は中国に合計2年くらいは滞在していて、Wechatはもっと長い間使っているが、今までこんなに多くの人がある問題に対して批判的な投稿をしているのは見たことがなかった。

 

このとき、言論統制の存在をよくわかっていた僕からすると、みんなこんなことして大丈夫なのかなと心配になる程だった。でも、ある意味驚いたのは、今回はそのような投稿が消されずに(規制されずに)残されていたことだった。

 

李に関する投稿でもう一つ気になったのは、そのような”批判的”な投稿が、誰に向けられていたのかが必ずしもはっきりしていなかったことだ。それは、中央政府やその指導部に対してだったのか、それとも武漢の地元政府や当局に対してだったのか。結局、よくわからなかった。

 

コロナウイルスの主戦場は、最初は中国だけだった。だから、中国にいた人達はそれだけ自分達のことを憂いたし、外国の人達は中国を励ました。でも、中国での深刻化が進むと同時に、日本をはじめ様々な国で感染者が確認されるようになった。ただ、最初のうちは数人程度に見えていたので、外国の多くの人は、まさかあの”地獄のような武漢”より遥かにひどい事態が自分の国で起こるなんて思ってもみなかった。でも、そんなことはなかった。

 

すぐに、イタリアやスペイン、韓国の状況が悪くなった。日本も、必ずしも被害がひどかったわけではないが、感染が拡大している感があった。すると、中国人の外国や外国人に対する見方が一気に変わった。彼らは、つい最近まで中国(武漢)はやばいと思っていたが、それよりも遥かにやばい外国を見て、むしろ外国は危険だと考えるようになった。そして、中国国内にいた外国人に対する視線も厳しくなった。立場の逆転が起きたのだ。これは、中国国内の状況が2月下旬以降徐々に好転している感があったのに反比例するように外国の状況が急激に悪化してしまったので、多くの人が持ってしまったような感覚だろう。

 

緊張感の中ただただ武漢を心配・応援していたコロナ初期に比べると、ある段階から、武漢・中国がコロナから克服しつつあることを印象づけるようなポスターや標語を見ることが多くなった(4月上旬撮影)。実態はよくわからないかもしれないとはいえ、中国の雰囲気や状況が変わってきていたことは、確かに僕も身をもって感じていた。

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世界中どこでもそうだが、中国でも医療関係者を讃えるようなものは多かった(4月上旬撮影)。

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特に、アメリカの状況が壊滅的に悪くなったことは象徴的だった。メディアの論調にも影響されているのだろうが、多くの中国人には、「やばい欧米諸国に比べると、中国は大丈夫、むしろ安全」という自信が芽生えた。そして、各国で数万人単位でバンバン人が死んでいくと、中国の公式の死者数は4千数百人とされていたので、「中国は感染症対策をむしろうまくやっている」という認識ができた。

 

このような認識の変化は、欧米のひどい状況と比べてしまうと確かにしょうがない面もあるかもしれない。でも、中国がそのような感染症の震源地となってしまった(と思われる)ことから考えると、「外国はなんてひどいんだ」とか「外国人は危険だ」みたいに強調されるのはいただけない部分もあった。

 

結局、コロナウイルスの問題は、今のところ中国の一人勝ちだ。感染の拡大はほとんど抑え込まれて社会は回復しつつあるし、何より、こんな無茶苦茶な年にあっても中国経済だけは主要国で唯一プラス成長を維持する。一方、主要国では感染状況も経済の見込みも目を当てられないくらいにひどい。そりゃ、中国人は自国に対してより自信を持つだろう。また、それは共産党へのより強い支持にもつながり得る。

 

「清明節(4月4日)」という人々が墓に参って先祖を祭る中国の祝日は、まさに新型コロナウイルスの犠牲者も含めた追悼の日となっていた(4月4日撮影)。つまり、中国の状況はすでに(完璧ではないが)山場を越えていて、犠牲者を追悼できる段階に移ってきていた。

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個人的には、「中国は大丈夫、外国はやばい」という認識が広まることは、本当に悩ましい問題だった。”感染が広まっていて危険な国”・日本出身の僕さえも、ずっと中国にいたことなんて関係なしに、国籍だけで無条件に危険人物扱いされてしまう恐れがあるからだ。僕は、わざわざコロナ禍の中国で長い時間耐え抜いてまで中国旅の再開を目指していたが、それもあっけなく葬られるかもしれない。

 

いや、実際に、広州に52日間滞在した後に旅を再開したとき、次の町のバスターミナルでは、日本人だからという理由だけで2週間の強制隔離かすぐに広州に戻るかの選択を迫られ、僕は旅を断念させられた。実は、そのとき韓国?など一部の国の人を、感染症の恐れから強制隔離などするという決まり(国の通知か何か)があった。僕はその存在を知っていたので、旅を再開する前に日本が入っていないことをしっかりと確認していた。そう、法的には日本人である僕を強制隔離する根拠なんて存在しなかったはずだ。

 

しかし、「外国人は危険だ」という認識が中国人に広まりつつあったことで、本来は平気なはずの僕も身動きが取れなくされてしまったのだ。これは、そういう意味で残念なことだったし、僕はもうどうすることもできなかった。そして、実際に外国の状況は壊滅していて、回復の兆しなんて全く見えなかったので、もちろん、僕の旅の野望も完全にねじ伏せられた。

 

上のような変化があってから、中国人の自国や外国に対する見方はほぼ固まっただろう。「中国は安全でむしろうまくやっている。外国は危険でうまく対処できていない」、そんなところだろう。しかし、日本人も含め、外国人は中国人のこのような認識に気づいていない人が多いように思う。

 

例えば、日中間における一部往来の再開に関するニュースが流れると、それに対する日本人の反応は、「中国人なんて危険なんだから来るな!」とかそんなものが多かったように感じる。でも、中国人からしたら全く逆だ。「中国に比べたら日本なんて危険で怖い、だから今の段階で日本になんて行きたくない」、彼らはこんな風に考えるだろう(確かに両国の感染状況を比べると、日本の方が明らかに悪い)。だから、「中国人の訪日反対!」なんて叫ぶ以前に、中国人は日本になんて来たくなかったはずだ。

 

僕が5月中旬に中国から日本に帰国したとき、まさに、日中の立場は逆転していた。中国では各地で生活が再開しつつある一方、日本は緊急事態宣言の真っ只中だった。だから、僕が広州からハルビン経由で成田行きの飛行機に乗ったとき、中国人の多くはフェイスシールドや手袋などでかなりガチな防備をしていた。そのような中国人を、日本人は「中国は危険だからすごい装備だね」とか「大変だね」とか思うかもしれない。でも、やはり違う。彼らは、”日本が危険で怖い場所だと思っているから”あんなに重装備をしていたのだ。

 

そして、僕が帰国中に一番印象的だったのは、そのような好転しつつある状況の中でもかなり厳しい管理体制を敷いていた中国と、どんどん状況が悪化しているにもかかわらずゆるい対策止まりだった日本のコントラストだ。

 

中国の空港では、依然として多くの空港職員や医療関係者が、防護服でフル装備をして、旅客の健康チェックなどを徹底していた。あまりの厳しさに、なかなかチェックが通らずに搭乗拒否されそうになった人がいた程だ。多くの人が、空港の入口で警備員に通せんぼされて困っていたのは印象的だった。

 

一方、成田空港に到着した僕はあまりのゆるさに拍子抜けした。いや、単純に、「日本大丈夫か?」と心配になった。というのも、飛行機に乗ってきた一般人がフェイスマスクや手袋などで重装備しているにも関わらず、その人達に今後の予定を聞き取りしたり、PCR検査をしたりする空港・検疫の職員が、医者も含めてみんな軽装備だったからだ。空港・検疫の職員は、ただマスクをしているだけで、他には特に何も特別な装備をしていなかった。そのマスクも医療用ではなく普通のもので、しかも、腕や顔など肌の露出も多くて気になった。PCR検査で旅客にとても近くで接触する医者?さえもそんな装備だったからあきれてしまった。

 

日本は本当に感染を阻止する気があるのかと疑わされたし、何より、こんな感染リスクの高い場所で働く職員の安全を考えると、あんな装備は絶対にあり得なかった。職員としても、こんな装備では働けないと声を上げるべきレベルだったし、もしそれで感染でもしたら、当然会社を訴えられるレベルだっただろう。いずれにしても、中国と日本の温度差には驚かされた。そして、コロナが中国ではある程度納まる一方、日本では延々といつまでも終わらない理由も明らかだった。

 

このように、中国人の自国と外国に対する見方は、時間とともに大きく変化した。そして、中国にとってこのコロナウイルスのパンデミックとは、間違いなく、ただの中国(武漢)の悲劇ではなく、中国が世界の中で自信と力を一層強める歴史的ターニングポイントになっただろう。

 

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(旅とパンデミック***19, 12月13日)

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