帰国への道:ポストコロナ目前の中国から緊急事態宣言の日本へ(***22)

2021年1月24日

 

とうとう、帰国への道についた。本当に帰れるか不安だったが、行くしかない。

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2020年1月24日に広州に到着し、2020年3月16日に旅の再開をあきらめた僕。特にできることもなくなってしまった中で、4月から5月の間は、中国におけるパンデミックを記録するために「旅とパンデミック***」というシリーズを書いたり、動画を制作するようになった。また、緊急事態宣言により学校に行けなくなった日本の学生たちが困っていると聞き、彼らのお助けになれたらいいなと思って「なんでも相談」も始めた。

 

そんな風にして、動けなくなった広州での日々を過ごした。でも、そんな広州から動かなきゃ行けない日も刻々と近づいていた。僕は、5月末までには日本に帰る必要があった。

 

正直、「ミドルキングダムの冒険」で目指していた中国全ての省と全ての世界遺産への旅が達成できないことや、北京の学校に戻れず世界中から集まった仲間たちにお別れを言えないことは、すごく不本意だった。だから、旅はもうあきらめたとはいえ、せめて北京にだけは一瞬でも戻りたかった。そもそも、修士論文の発表が5月末にキャンパスで予定されていたこともある。

 

でも、それも叶わなかった。北京では、春の時点でも所々で感染が確認されて厳しい措置が取られていたので、僕が北京に戻れば隔離されるのは必至だった。どうにかできないかと、学校のスタッフとも電話で相談したが、「今回はやめた方がいい」とアドバイスされた。

 

まさか、旅へ出発した2019年9月のときが、北京の美しいキャンパスやすばらしい仲間たちとのお別れになるなんて思いもしなかった。本当に、本当に、残念だった。北京に置いてきたたくさんの荷物とも、しばらくはお別れだ。

 

不本意にも、広州が今回の旅の終点になってしまった。

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こうなると、僕に残された選択肢はもう一つしかなかった。広州からまっすぐに日本へ帰ることだった。じゃあ、コロナ禍にどうやって帰るのか。(まだ日本に帰りたくなかったので)ずっと調べることを避けて放置してきたが、とうとう、帰国方法について考え始めた。

 

「ぅっ!!!!!!・・・・。」

 

「まじか・・・。もしかしたらとは思ってたけど・・・、まじか。」

 

帰国方法について調べ始めてすぐ、僕はやばいことに気がついた。なんと、中国から日本への飛行機がめちゃくちゃ高騰していて、超高くなっていた。上海から東京まで飛ぶのに片道20〜25万円。東京上海なんて、普段なら片道1万円で飛ぶこともできなくはない安い路線なので、このあまりの高さにはゾッとした。

 

「やばい、こんなん乗って帰れない!(でも、帰らなきゃいけない・・・)」

 

コロナ禍の飛行機は、乗る人がいないから安くなっているか、飛行機が少なくて高くなっているかのどっちかだろうとは思っていたが、最悪なことに高いパターンだった。なんとなくそんな気もしたが(でも詳しく調べたくはなかった)、日中間の航空路線は大幅に縮小していた。

 

感染状況によって航空路線の変更が多かったのでよくわからないが、僕が帰国するときは、中国側の数カ所の都市(上海・大連など)からしか日本に飛ぶことができなくなっていた。しかも、飛んでいたとしても基本的には週に一便だけだった。

 

旅の前、日中間の観光などについていろいろ調べていたときにつくった日中間の航空路線図(大体、2019年春時点のもの)。コロナ前は、日中間にすごい量の路線があったが、コロナによってそのほとんどがなくなった。

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僕が特に困ったのは、日本人も多い中国南方の大都市・広州と深センから日本への飛行機がなくなっていたことだった。また、本来であれば、広州からほど近い香港やマカオから日本へ飛ぶという手もあったが、大陸とはシステムが違うので、行けないor行ったとしても隔離されちゃうで使えなかった。だから、僕が滞在していた中国南方から日本に帰る術はなく、まず、北に行かなければならなかった。

 

でも、20万円以上もする航空券なんて高すぎて買ってられない。僕は、必死になってもう少し安く飛べないか探した。すると、“安い航空券”を見つけた。7万円くらいで山東省の青島から東京に飛ぶ飛行機だ。

 

「安いっ!(でも、本当はまだめっちゃ高い!笑)」

 

僕は急いでその航空券を買おうとした。でも、買えない。何度試しても買えない。「おい!頼むよ!!」となったが、どうやらこの路線はまだ売っているだけで、実際にはもう飛んでいないようだった。

 

「まじか〜」

 

僕はまた、20万円以上の航空券に囲まれた。でもまた、新しい“安い航空券”を見つけた。しかも、今度のものはもっと安い。なんと、たった3万5千円だ!中国の一番北のほうにある黒龍江省のハルビンから東京まで飛ぶLCCの飛行機だ。

 

でも、色々と不安だ。まず、値段が圧倒的に安すぎるし、まだ飛んでいる航空会社が基本的にはキャリアなのにこれはLCCだ。そして何より、日本人もそこまで多くない&大した都市ではないハルビンからまだ日本に飛んでいるというのは不自然に感じた(北京や広州、深センでも飛んでないのに!)。

 

でも、不安をはるかに超える魅力(安い!)にひかれ(というか選択肢もないので)、僕はこの航空券にかけてみた。すると・・・、普通に買えた。予約確認書として、E-チケットもすぐに送られてきた。

 

「よっしゃ!これで、帰れ、る?!」

 

どうなるかはよくわからないが、とうとう、唯一の道・ハルビンから日本に帰ることが決まった。

 

当時、日本大使館?がまとめていた日中間の運行路線の表。上海と大連に加え、ハルビン、瀋陽、福州が載っていた。でも、ハルビン以外はすごく高かったし、瀋陽と福州のチケットは見当たらなかったような気がする。

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航空券購入時の不安は思いのほか簡単に解決したが、日本帰国に向けた本当の問題はここからだった。ハルビンで、無事に飛行機を乗り換えられるかわからなかったからだ。

 

コロナ禍の中国では、南方の都市が比較的早くから経済活動などを再開していた一方、ハルビンがある東北部ではまだまだ厳しい態勢が敷かれていた。そんな中、実は、僕の飛行機は朝に出発するものだったので、広州から行って乗り換えるためにはハルビンの空港に前日夜に着いている必要があった。つまり、ハルビンの空港で朝まで飛行機を待つ必要があった。でも、厳しい態勢の中では飛行機を降りた後に隔離などされないか心配だったのだ。

 

僕は航空会社に電話して、乗り換えで問題が起きないか聞いてみた。すると、彼らは特に問題は聞いていないと教えてくれた。でも、現場でどうなるかは実際にはよくわかっていないらしく、念のため、黒竜江省の健康コード(健康码)を持っておくといいんじゃないかと教えてくれた。

 

健康コード(健康码)とは、個人のスマホで過去数週間の行動履歴や接触履歴を登録し、その人のコロナリスクを判定するものだ。特に問題がなければ緑のコードが発行され、何か問題があると赤のコードが発行される。公共交通機関や商業施設など、多くの場所の入口でコードの提示が必要で、緑だと通行許可、赤だと通行拒否となる。このシステムは、コロナのかなり初期、確か2020年2月前半くらいに出てきたもので、機能などは基本的に同じだと思われるが、省ごとに(場合によっては都市ごとに?)違う健康コードが使われていた。

 

なるほど、黒竜江省の健康コードは確かに必要になる気がしたが、それだけでは確実に乗り換えできるのかよくわからない。だから、次はハルビン空港に電話してみた。

 

僕:「Hi, do you speak English?(ハイ、英語話せますか?)」

空港スタッフ:「No.(ノー)」

僕:「啊啊啊,好,那我说中文吧。。。(あー、わかった、じゃあ僕が中国語話すね。。。)」

 

大事なことなので、確実に意思疎通が取れる英語で話したかったが、空港スタッフは英語ができなかったので、しょうがなく中国語で聞くことになった。

 

僕:「我在哈尔滨机场会不会有问题?(ハルビンの空港で何か問題ありえるかな?)」

空港スタッフ:「不会,你没有问题(大丈夫、問題ないよ)」

 

問題ないか・・・、よかった。でも、そんなはっきり答えられると逆に不安になる(笑)。これは、別に僕が心配性という訳では全然ない。単純に、中国ではいつでもなんでも急に変わりえるからだ。例え問題がないとされていることでも、現場の人の裁量で物事が変わったりする。だから、例えば、決まり上は絶対問題ないはずだったから3月に旅を再開したときも、すぐに隣町で現場の警察の判断で強制隔離される寸前だった。別に中国は「人治」だと言う気はないが、物事が読めないという意味では難しい国だ。

 

とりあえず、不安は解消しない(笑)。でも、ハルビンだけが日本への唯一の道だったので、僕はこのルートで帰ることにした。わからないことは、現場でわかる(それが中国)。

 

ちなみに、ハルビンへの飛行機は普通に広州から乗った。本当は、近くにある深センから飛んだ方がけっこう安かったが、広州から深センに絶対に問題なく移動できるかもよくわからなかったのであきらめた。正直、かなり時間が経った後にこの経験について書いていると、「なんでそんなに心配したんだろ?」と不思議に思うが、でも、本当に、そのときの中国はどこで何が起きるかさっぱり謎だったのでしょうがなかった。

 

2020年5月16日、とうとう広州からお別れだ。緊迫感の中すべり込んだ1月、旅の再開に向けて耐え忍んだ2月、目標を失ってうなだれた3月、今できることを頑張ることにした4月と5月。全く想像もしていなかったが、広州には、それまでの「ミドルキングダムの冒険」よりも長い合計114日間も滞在していた。「中国を制覇してやる!」と言って北京を飛び出したのに、各地を巡る時間よりもあるホテルの1室にいた時間の方が長いなんて皮肉的だ。でも、後悔はない。やれることはやった。全力で。それに、また戻ってきて挑戦すればいい。だから、今は安全に日本へ帰ろう。

 

本当に長い間滞在した広州。その間に、コロナをめぐる情勢は大きく変わった。

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旅全体よりも長い時間を過ごすことになってしまったホテルの611号室(中国語でよく「リョウヤオヤオ」と言っていた)。安いので大した部屋ではなかったが、それでも快適に過ごせた。

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とうとうホテルをチェックアウトするとき、僕は店長を呼んだ。パンデミックという緊急事態の中、これまで何度も僕を助けてくれたことに感謝を伝えたかったからだ。すると、店長はいつも通りいい人で、僕を外まで見送ってくれた。

 

店長:「空港の行き方はわかるか?この駅から地下鉄に乗って行くといい。自転車開けてあげるから、これに乗ってきな!」

 

そう言って、店長は駅まで行くためのシェアサイクルを用意してくれた。僕にとって、北京の仲間たちとも再開できずに2年間滞在した中国をひとりで去ることはとても不本意だったが、そんな中、店長がいてくれて、気持ちよく送り出してくれたことは本当に嬉しかった。店長、ありがとう! 真面目に、パンデミックの中で僕が一番ラッキーだったことは、店長やスタッフなど、いい人がたくさんいたこのホテルに辿り着けたことだと思った。

 

広州を出発する直前に何度も助けてくれた店長と。本当に、ありがたかった。

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いつも部屋を掃除してくれたり、話をしたホテルのスタッフ。真面目によく働く人たちで、感心した。

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店長に開けてもらった自転車で駅に行き、地下鉄で空港に着いた。入口では、いつも通り広州の健康コードで中に入った。特に、問題はない。そして、実際に飛行機に乗るのも、どの段階でも問題はなかった。僕は、すんなりとハルビンに着いた。

 

でも、ハルビンに着くと少し様子が違った。多くの空港スタッフが、防護服などでフル装備していた。やはり、ハルビンの状態や態勢はまだ厳しいようだ。でも、じゃあ、乗り換えは大丈夫なのか。僕は、恐る恐る全ての到着客が通らなければならない出口のチェックに並んだ。

 

「旅を再開したけどトラブった開平のときと同じパターンだ。今回は通してくれるといいけど・・・。」

 

結果は・・・、大丈夫だった!彼らは、これまでの行動履歴やこれからの予定について聞いてきたが、僕がこのあと日本へ帰ると知ると特に気にせず通してくれた。どうやら、乗り換え客は問題視していないようだった(それか、国際線だったからか、ハルビンに滞在する予定がなかったからかもしれない)。

 

ハルビン空港で、出口のチェックポイントに並ぶ人たち。スタッフがしっかりと防護服を着ているので、この場所はまだ厳しいことがわかる。

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外から来た人たちは、まだ好きに行動することができる訳ではなさそうだった。おそらく、人によっては2週間の隔離が必要だったと思われる。

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それで「よっしゃ!」となっていた僕だが、その隣にいた困っている人に気がついた。見た感じ、明らかに日本人だ。ただ、困っているのは別に深刻な問題ではなく、単純にその人が中国語が(英語も)できないことによるコミュニケーションのようだった。だから、僕が少し手伝ってあげると、彼もすぐに解放された。

 

彼は、マカオの目の前にある大陸側の都市・珠海から来た日本人だ(通称:珠海おじさん)。珠海に住みつつマカオのホテルで働いていたが、少し前にコロナで解雇されたので日本に帰るという。ニュースで聞くような大変そうな状況だなーと思いつつも、彼は珠海で毎週のようにやっていたというゴルフの大きなバッグを抱え、あまり気にしてないのか軽い感じだった。

 

最初、僕は彼の中国での経験がおもしろそうだなと思ったので、いろいろと話した。それで、翌朝までまだ長いので、僕たちは一緒に待つことになった。

 

夜中のある時間。彼は大した理由もないのに空港の外に出ていった。そして、戻って来ない。どうしたのか気になった僕は、出入り口付近の窓から外を眺めた。すると、彼が空港の入口のところで警備員に停められている。どうやら、何かトラブっているようだ。

 

空港から出ると、中に戻ってくるには何かしらチェックが必要だ。だから、僕は彼が外に行っても一緒に行きたくなかった。でも、彼と警備員のやり取りは全然埒があかないようだったので、しょうがなく、僕も外に出た。

 

僕:「どうしたの?」

珠海おじさん:「警備員が全然中に入れてくれないんだよ」

僕:「なんで? ・・・・あっ!!」

 

なんと、彼の健康コードが赤色になっていた。赤色イコール、コロナのリスクがあるという意味だ。そりゃ、警備員も中に入れてくれる訳がない。でも、彼によると、コロナリスクがあるような心当たりはないし、登録したらまずい情報の経験(例えば、最近、武漢に行ったとか感染者と接触したなど)がある訳でもないという。だから、赤色になっているのは、よくわからずに健康コードの情報を登録したことによるただの間違いだという。

 

問題は、健康コードを修正することは(基本的に)できないということだ。でも、空港に入れないと彼は日本に帰れない。だから、彼は必死で警備員にいろいろと説明して入れてもらおうとしたが、健康コードが赤い限りは無理だ。

 

そんな、「なんでやねん」って思ってしまうような話(なんで外に出た?なんでコードが赤いの?なんでコードが直せないの?)は、2時間前後続いた。すると、またひとり入れないで困っている人がいた。彼も日本人だ。数年間、西安で働いているという駐在員だ(通称:西安おじさん)。

 

彼の場合、まだ黒竜江省の健康コードを持っていなかった。だから、教えてあげて登録してみると、コードは緑色。彼は、すんなり中に入ることができた(でも、珠海おじさんを助けるために一緒に外に残った)。

 

問題は珠海おじさんだ。健康コードの色を変えないとどうしようもない。だから、僕たちは警備員に相談したり、ヘルプデスク?のような場所に問い合わせたり、登録の仕方を変えてみたり、いろいろと試してみた。すると、最後の最後には、そんな状況を見かねた警備員が入れてくれた、あるいは、何かの拍子でコードが緑色になり、僕たちはやっとみんなで中に入ることができた(警備員が入れてくれたか、コードが緑色に変わったか、どっちだったかはっきりと思い出せない・・・)。コロナ禍に母国へと帰国を目指す人々の一場面だった。

 

空港の外でずっと足止めされている珠海おじさん。すごい時間をかけてみんなでどうにかいろいろと試し、最後にはやっと入れてもらえた。ちなみに、健康コードは窓に貼られたQRコードを読み取ると表示・入力できる仕組みになっていた。

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やっと中に入れた僕たちは、ソファーに腰を下ろし雑談していた。すると、今度は天津から来たという日本人が話しかけてきた(通称:天津おじさん)。

 

天津おじさん:「このあとの乗り換え大丈夫かとか不安なんですけど、どうしたらいいんですかね?」

 

それは僕も知りたかったが、とりあえず、彼は黒竜江省の健康コードが必要だということを知らなかったようなので教えてあげた。そして、珠海おじさんの失敗があるので、手取り足取り慎重に情報登録を手伝ってあげた。それで出てきた健康コードは緑色! 出てくるときの待ち時間は、まさに運命を左右する緊張の瞬間だった。

 

帰国への道もまだまだ油断できない。僕たちは、不安の中夜が明けるのを待った。

 

僕たちが待機していたのは、ハルビン空港の国内線ターミナルだ。日本へ帰るには、外に出て多少離れた場所にある国際線ターミナルまで移動しなければならない。飛行機は10時35分発のものだったので、朝一で移動する予定だった。

 

早朝6時前、まださすがに早すぎる時間だが、珠海おじさんが動いた。また問題が起きては困るからと、先に国際線ターミナルへ行くという。ただ、僕と西安おじさんは、もう少し待ってから移動することにした。

 

1〜2時間後、僕たちも国際線ターミナルへ向かった。ターミナル間の送迎バスがあるはずだが、早朝でよくわからなかったので歩いた。外は快晴で、ハルビンとはいえもう寒くはなかった。僕たちは、人も車も全然通らない道を20分ほど歩き、国際線ターミナルに着いた。

 

ハルビン空港の国際線ターミナルは、ある意味驚くべきものだった。まるで片田舎の駅舎のように、しょぼい建物だったからだ。中国をある程度移動したことある人ならわかると思うが、中国ではよくわからない田舎町でも巨大な駅などが整備されていることが多い。でも、逆に、ハルビン空港の国際線ターミナルはある程度メジャーな都市のものとは思えない小ささだった。

 

ハルビン空港国際線ターミナルの外観。あまりにしょぼいので、田舎の駅かと思った。

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そんなことを思いながら入口に到着すると、ここでも健康コードのチェックを求められた。ただ、僕と西安おじさんは特に問題はないので、普通に中に入れてもらうことができた。やったー、もう少しだ。

 

僕たちは、まだガラガラの空港内で珠海おじさんを探した。僕たちよりもかなり早く出発していたから、もうどこかにいるはずだ。でも、全然見つからない。おかしいなと思った僕たちは、さっきまではすいていた入口に多くの人が溜まっているのに気がついた。そして、よく見てみると、珠海おじさんもその中にいた。

 

「あーーーー、珠海おじさんがまた止められてる・・・。」

 

よくわからないが、やはり珠海おじさんは入れてもらえないようだ。しかも今回は、他にも日本人っぽい人たちが何人も入れずに揉めていた。すごく厳しい管理に感心・心配していた僕と西安おじさんだったが、とりあえずは見守ることにした。珠海おじさんは、他の日本人を捕まえて助けてもらってるようだったからだ。

 

国際線ターミナルの入口で、入れずに揉める人たち。厳しい管理の徹底具合はさすがだった(でも、厳しすぎて困る面もある)。

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すると、かなり苦戦しているようだったが、しばらく経った後にはみんなどうにかして入ってきた。その瞬間、「よっしゃー!」と喜びながら、重い荷物を引きづる珠海おじさんが駆けてきたのは印象的だった。

 

狭いターミナル内に集まった人たちを見ると、どうやら今日の乗客は、中国各地から集まった日本人と在留資格などを持つと思われる中国人のようだ。搭乗率は半分もないぐらいだったと思うが、まあまあ人はいた。

 

一方、ハルビン空港の国際線ターミナルでその日に稼働している飛行機はこの東京行きだけだった。その他の国際線はほとんどキャンセルされているようで、国際線ターミナルはほぼ営業停止状態に見えた。コロナの影響は甚大だ。

 

国際線ターミナルとは思えない国際線ターミナルの中。スタッフはしっかりと防護服を着るなど、まだ厳しい様子だった。

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国際線ターミナルのこの日の運行状況。東京行きの飛行機しかなかった。

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無事に空港内で合流できた僕たちは、搭乗手続きに進んだ。搭乗手続きは、コロナとはいえ基本的には普通のものだった。なので、僕は特に何の問題もなく全て通り抜けることができ、とうとう搭乗口で、あとは東京行きの飛行機に乗るだけだった。西安おじさんもそうだった。

 

でも、なんでやねん! 珠海おじさんがまた捕まっていた。今度は、出国管理のパスポートチェックで止められている。よくわからないが、どうやらビザに問題があったらしく、ひとり長い時間いろいろと話している。僕たちは、もうあきれてしまった。まさかビザにまで問題があったなら、それは彼の問題だからもう好きにどうかしてくれとなった。

 

今回ばかりは本当にゲームオーバーかと思ったが、珠海おじさんはそれでもまた抜けてきた。これでとうとう、本当に日本に飛べるようだ。すると今度は、安心したのか日本に帰ったあとの話を始めた。

 

それは、いかに隔離を無視して、地元である愛知県に帰るかという話だった。彼は、成田空港のスタッフに嘘をついてタクシーなどで近場へ抜け出し、そこからレンタカーか公共交通機関で愛知県に帰ることを計画していた。僕と西安おじさんは、彼のあまりのだらしなさとクソ野郎具合にもう嫌々としていた。

 

ただ、このような話を聞くと、日本の対策がいかに問題かも強く感じた。強制力のない自主隔離なんて、守らない人がどうしても出てくるからだ(このときからはかなり後の話だが、イギリスから帰国した日本人が隔離期間中に会食し、新型コロナウイルスの変異種を感染させたというニュースもあった)。中国のように強大な力でなんでも管理しようとするのも問題だが、日本のように過度に人の良心に頼った対策も問題だと思った。そりゃ、国外から来る人には自主隔離を求め、国内の人には緊急事態宣言をしているとはいえ、感染拡大を止められないのは当然だ。

 

そして、とうとう東京行きの飛行機に乗り込んで、飛び立つ。ゆっくりと進む飛行機の外では整備員の人たちが手を振っている。この2年間、「ミドルキングダムの冒険」だけではなく、いろいろな経験をしてきた中国との感慨深いお別れだ。

 

離陸直後、僕はこの瞬間でもまだ、中国のおもしろさを実感させられた。窓の外に、川だかなんだかよくわからないけどすごい大地の景色を見たからだ。「なにこれ?」という新発見が尽きないことこそが、中国のおもしろさだった。

 

中国での生活は、本当におもしろかった。

 

全く予想もしていなかった流れで中国を去ることになった。また、戻ってこよう。

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川だかなんだかよくわからないけどすごい大地の景色。常に新発見があって好奇心を刺激されるから、中国では退屈しない(というかできない)。それにしても、なんじゃこれ???

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搭乗率は半分もいっていなそうだった。コロナにも配慮して、みんな間隔をあけて振り分けられていた。

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ハルビンから東京までは、たった3時間の飛行だ。下の世界の混乱とは違い、雲の上は平和だった。飛行機は順調に飛び、全てが普通だった。

 

しばらくすると、飛行機は成田空港に向かって日本上空に入った。すると、このとき空からは成田周辺の景色が見えたが、それは、今まで見たことがないくらいすごくきれいなものだった。

 

でも、地上では緊急事態宣言が発出されていた。僕が今までに経験したことのない、全く違う日本だ。

 

成田空港には、これまでも何回も着陸したことがあるが、こんなにきれいな景色を見たのは初めてだった。

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ハルビンから東京へ、平和な空の旅。時は、2020年5月17日。日本ではまだ、1回目の緊急事態宣言が発出されていた。

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成田に着陸すると、基本的にはいつもと同じだった。飛行機からはすぐに降りられ、その後は普通に空港内を歩いて入国管理と荷物置き場に向かった。

 

違ったのは、その途中で新型コロナウイルスに関するチェックポイントがあったことだ。そこでは、全ての乗客が、どのようにして自主隔離をするのかについて聞かれ、その後はPCR検査を受けさせられた。でも、このとき僕が特に驚いたのは、感染リスクの高い仕事をしている空港のスタッフがみんな軽装備だったことだ。

 

中国のように防護服を着ている人なんていないし、みんなせいぜいゴーグルと普通のマスク、手袋をしているくらいだ。半袖を着て肌を露出している人もいたので、彼らのこの問題に対する危機意識の低さには愕然とした。皮肉なことに、中国から来た一般の乗客の方がしっかりとした防備をしていることも多かった(実際、この段階では、中国はコロナが落ち着きつつあるポストコロナ目前で、日本は感染が拡大している緊急事態宣言の最中だったので、中国から来る人の方がむしろ日本を警戒していた)。

 

全ての乗客に自主隔離の仕方などを聞き取るスペース。中国から来ると、「こんなんで大丈夫なのか?」と日本のゆるさに驚かされた。

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自主隔離などの聞き取りの後には、全ての人がPCR検査を受けさせられた。PCR検査をしてくれた医師?のような人も軽装備だったので心配になった。

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聞き取り調査とPCR検査の後、幸いなことに、僕は親に迎えに来てもらって自宅で自主隔離をすることができたので、それまで空港内の控え室で待つことになった。控え室といっても、それは乗客が消えて使わなくなった荷物置き場に、災害用のダンボールベッドを所狭しと並べたものだ。乗客は、そこで各自好きな場所に座り、無料で配られていたおにぎりやサンドウィッチなどを食べて過ごしていた。まさに、緊急事態の光景だった。

 

また、控え室を出入りする際には空港内も歩いたが、こんな成田空港を見るのは初めてというほど閑散としていた。

 

誰もいなくなった荷物のベルトコンベアー周辺に並べられた災害用ダンボールベッド。迎えがなかなか来ない場合などは、ここで長い時間待つ人もいたらしい。

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働いている人以外はほぼ誰もいない成田空港。コロナ前までは、あんなにもインバウンドなどで盛り上がっていたのに、こんなにも一瞬で全て消え去るなんてコロナの衝撃度を痛感した。

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控え室には、空港のスタッフが何人かいて、迎えが来た人から順次帰すというシステムだった。このとき、”悪い乗客”に抜け出されないよう、スタッフは全ての乗客がしっかりと迎えのところまで行くように最後まで付き添いをしていた。そのスタッフは、なぜか外国人女性ばかりだった。

 

ちなみに、地元が遠いなどで帰れない人には、自主隔離用のホテルが用意されていた。このときは、空港近くの東横インに2週間無料で泊まることができたようだ。だから、”悪い乗客”になりかけていた珠海おじさんも、最終的には、無料ならとホテルに行くことにしたようだった。

 

少し経つと、僕にも迎えが来た。

 

そして、緊急事態宣言の中、静寂な道を故郷に帰った。

 

こうして、僕の中国での時間と「旅とパンデミック」が終了した。2日後、僕には「新型コロナウイルス陰性」との連絡が届いた。いろいろと苦悩して、頑張ってきたが、僕はついに、安全に帰ることができた。

 

全部ありがとう。

これからもがんばろう。

 

中国で最高の時間を共にした大学院の仲間たち。40ヶ国以上から集まっているので、本当に流れ星のようにみんな各地に散ってしまった。

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中国で最高の時間を共にした大学院の仲間たち。最後に彼らとお別れができなかったことはとても残念だった。

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帰国後の日本の印象:

 

自宅で2週間の自主隔離をした後、ちょうどタイミング的には緊急事態宣言も解除され、僕は動き始めた。それで特に感じたのは、日本の対策がとてもゆるいということとみんなの危機意識の低さだった。まず、「密を避けよう」とか、「何かを自粛しよう」とかいうことは呼びかけられていたが、それは全部個人個人の行動にかかっていたのでかなり効果が怪しかった。実際、人は(いつもよりは少ないにしても)いっぱい動き回っていたし、会食などをしている人もいて接触が多かった。

 

そんな中、僕は中国から持ってきたガチマスクをしているなど、かなり浮いた状態だったと思う。また、ある職場の人がある程度まとまって会食をしていると聞くと、感染が起きたときはどうやって仕事を回すつもりなんだろうと疑問に思った(みんな共倒れで全部止めることになってもいいと思っているのか)。

 

ただ、そんな僕も、少しすると変わったと思う。もう、あきらめた。日本で生活する限り、感染するかしないかなんてコントロールしようがない、ただの運のようなものだと思うようになった。非感染者と感染者がかなり高い確率で混在していて、感染者といつ接触するかなんて全くわからないからだ(一方、良くも悪くも、中国では感染リスクのある人をかなり厳しく徹底的に洗い出していたので、感染者と接触するリスクは可能な限り小さくされていた)。別に、日本も全部中国みたいにすべきだとは思わないし、そもそも体制や価値観、文化の違いでできないが、これでは、日本で感染が治らないのも当然に思えた。

 

だから、ポストコロナが早かった中国と、緊急事態宣言が終わらない日本(今現在は2回目が発出されている)という結末の違いも当然だった。僕が帰国したときの2020年5月を思い出してみても、中国では、情勢がポストコロナ目前にもかかわらず対応は厳しかったのに対し、日本では、情勢が緊急事態でも対応はゆるかった。

 

もちろん、日本の今の「ゆるい対応」でも、困っている人がたくさんいることはよくわかっている。ただ、コロナを抑えるためにどっちみち大変なら、ゆるい対策で長く苦しんで結果も出ないよりは、徹底的な対策で短く苦しんで終わらせる方がいいのではないかと思った。むずかしいね・・・。

 

僕は、中国の感覚でずっと着けていたガチマスクも、しばらくするとただの普通マスクに変えた。

 

僕は、日本に帰ってきた。

 

ハルビンから東京への飛行中。日本では、こんなガチマスクをしている人がかなり少なかったから、会う人にはよく「マスクすごいね」と言われた。

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最後に:

 

2020年4月からまとめてきた「旅とパンデミック***」は、とうとうこの記事で完結になります! やっとだ。

ここまで読んでくれたみなさん、本当にありがとうございました。

新型コロナウイルスのパンデミックという歴史的大事件にあたり、その震源地である中国で起きていたことや、当時中国を旅していた僕が経験してきたことについて、少しでも伝えられていたら幸いです。

ただ、「旅とパンデミック***」はひとまずここで終わりましたが、「パンデミック」を巡るストーリーは、残念なことにまだまだ続きそうです。

だから、みんなどこで何をしていても、とにかく気をつけてください!

もう少しの辛抱です。

 

また記事や動画など様々な発信で会いましょう!

じゃあ、再見!

 

「山川異域 風月同天」

 

日本に帰国後、北京の大学院から送られてきた僕の荷物。箱には、「山川異域 風月同天」・「Kazuki GO!!!!」と書いてあった。「山川異域 風月同天」というのは、約1300年前?に日本の長屋王が唐に送った袈裟に刺しゅうされた漢詩の一節で、「山と川は違っても、同じ風が吹いて同じ月を見る。場所は違っても、同じ自然や志でつながっている」という意味らしい。

ニュースで見た人もいるかもしれないが、この一節は、中国でのコロナがひどいときに日本からの支援物資の箱に書かれていたことから中国で大きく話題になったものだ。

そして、今回、中国から日本にこの一節が帰ってきた。送ってくれたのは、大学院のプログラムのスタッフだ。

スタッフたちにも会えなかったし、友達たちにも会えなくてそれは本当に不本意だけど、僕たちはみんなつながっている仲間だ。

だから、これからも、がんばろう!

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(旅とパンデミック***22, 2021年1月24日)

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