とにかくしんどい、コロナ禍の114日(***18)

2020年11月8日

 

とにかくしんどかった、コロナ禍の広州での114日間

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中国でコロナウイルスの問題が深刻化し、ある程度落ち着くまでの間、僕は中国南方の大都市・広州で足止めされていた。

 

1月24日にマカオから広州に着き、5月16日にやっと広州を離れたので、合計で114日間も広州にいたことになる。

 

そもそも、広州に来るまでは、僕は中国全ての省と全ての世界遺産を訪れる「ミドルキングダムの冒険」というプロジェクトで2019年9月から各地を旅していた。でも、春節のとき(1月24日は春節の前日だった)に広州に到着して以降、僕は二度と、前みたいに旅をすることができなくなった。

 

今回の旅で最後の世界遺産になってしまったマカオの歴史地区(全55ヶ所のうち、23ヶ所目)

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広州にいた114日間は今までの旅の生活とは全く違って、室内にいる時間がかなり長かった。

これは本当に、とにかく、とにかく、しんどかった。

 

まず、生活がとにかく乱れた。それまでの旅の中では、朝早く起きて、日中は外を走り回り、夕日を見たあとは町を散策し、夜は12時とか1時までに寝るような生活をしていた。でも、コロナ禍の広州では”起きる理由”がないし、だから”寝る理由”もなかった。朝起きても、旅なんて再開できるわけがないし、コロナがやばいと言われる中では積極的に外に行く気にもならなかった。というか、外出してもそもそも閉鎖されている場所が多かったので、特にすることもなかった(一方で、コロナ禍の状況を観察するため、僕はどの時期でも街中を出歩いてはいた)。

 

だから、まだ近いうちの旅の再開に希望を持っていた1月下旬には普段通り12時から1時くらい寝ていたのが、日が経つにつれて2時、3時とどんどん遅くなっていった。もう旅の再開や達成が絶望的になった3月、4月、5月には、動画編集や記事作成、修士論文執筆など何かしらの作業をしていて朝や昼まで起きているなんてこともよくあった。広州にいたときの平均就寝時間は朝5時くらいになると思う。

 

そうすると、朝に(午前中に)起きるなんてできるわけがない。だから、いつもホテルのスタッフ(おばちゃん)のノックで目が覚めた。

 

おばちゃん:「コン、コン、コン(ドアノックの音)」

僕:「・・・。嗯〜,好的(=うぅん〜、わかった)」

 

僕はもしかしたら実は前から起きていたんじゃないかと思わせる平然さを装ってドアを開けた(こんな無茶苦茶な生活をしていると知られるのもどこか後ろめたく感じた)。すると、おばちゃんはいつも部屋を軽く掃除してから、新しい水とタオルをくれた。毎日こんなことを繰り返していると、おばちゃんも決まった2人しか来ないので、僕の乱れた生活リズムを理解するようになった。すると、特に片方のおばちゃんは(下の写真の左側)、僕のことを配慮して掃除に来る時間を遅くしたり、ノックの音を小さく丁寧にしてくれるなど、とても気の利く人で印象的だった。

 

例えば、最初の方はいつも大体12時〜14時くらいに来ていたのが、僕が夜寝るのが遅くて起きるのも遅いと知ると、大体14時〜15時くらいに来るようになった。そして、僕がなんとか起き上がってドアを開けると、何度も「すみません」、「ありがとう」と言っていたのも印象的だった(しかも、広東語話者のおばちゃんが話す北京語は、外国人の僕でもわかるほどなまっていた)。

 

中国には本当に色々な人がいるが、ここまで謙虚な人も珍しい。おばちゃんは、ホテルに全然お客さんがいないときでも空き部屋もよく熱心に掃除していたので、とても感心させられた。

 

このホテルのスタッフはみんなすごく親切だったけど、特に左のおばちゃんは優しかった

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おばちゃんに14時前後に起こされると、僕は気だるい感じで窓際のベッドに座り、日光を浴びながら、いつも決めなきゃいけないことがあった。いますぐに昼ご飯を出前アプリで頼むか、いっそのこと少し待って17時か18時に早めの夜ご飯をいっぱい食べるかだった。

 

昼に起きると、少ない時間の中で可能な限り日光を浴びようとした

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問題は、コロナ禍でずっと室内にいると、とにかく最強に食欲がなかったということ。でも、部屋を掃除しているおばちゃんとは、大抵、「もうご飯食べたの?」という話になるので、14時とか15時に何も食べていない自分もやばいなと感じていた。

 

だから、僕はよく起きてすぐに、早くて、安くて、おいしい食べ物を注文した。色々な食べ物の中でも、滞在中に一番(20回前後)食べたのは海南チキンライスだった。ホテルの近くにマレーシア系のレストランがあり、そこの海南チキンライスは安くておいしいだけではなく、出前がとにかく早かった(いつも20分くらいで届く)。

 

でも、コロナ禍で最強に食欲がなかったので、ご飯を食べること自体が苦痛になった。特に、最初の方はお気に入りだった海南チキンライスも、時間が経つにつれ、食べると吐き気を感じるほどになっていた。また、完食するのにもすごく時間がかかるようになった。

 

そんな生活が広州で長く続いたあと、僕は5月中旬に日本に帰ってきた。そして、2週間の自主隔離をしなければならなかったのだが、その間も食欲がなく、食べるのが苦痛だった。隔離が終わったあと、僕は家族と外食に行ったのを覚えているが、そのときも吐きそうでつらかった。

 

はぁーー 。

 

でも、隔離終了後から規則正しく忙しい生活が始まると、1週間くらいでご飯をおいしくしっかりと食べられる普通の状態に戻った。

 

とにかく、コロナ禍の広州での生活はしんどかった。

 

そういえば、そんなしんどい生活を送っていた広州では、マクドナルドに行くことが多かった。僕は普段なら全然マクドナルドに行かないが、ホテルの近くには24時間営業のマクドナルドがあったので(しかも横にはセブンイレブン)、無茶苦茶な生活をしていた僕にはとても便利だった。でも、それ以上に、中華料理の味に飽きたり、食べること自体がしんどくなっていた僕でも、マクドナルドのハンバーガーやポテトはなぜかおいしく食べることができた。すごいなマクドナルド!!良いのか悪いのかわからないけど。

 

中華料理は間違いなくおいしいけど、ずっと室内で同じようなものを食べていると嫌になってくる(これはおいしかった)

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中華料理に飽きて日本料理屋から出前を取ることも多かった

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広州での生活はとにかくしんどかった。でも、僕は希望を持っていた。

 

1月23日に武漢が封鎖され、1月24日に広州に着いたとき、僕は比較的楽観的だった。この問題が深刻なことはわかっていたが、武漢から遠い場所であれば厳戒態勢の中とはいえ2週間前後で旅を再開できると思っていた。だから、むしろ、「広州で少し休めそうだな」とか、「この間に旅しながらだと大変な修士論文を進められそうだな」とか思っていた。でも、1月26日にそれまでの旅の感じで広州市内の観光地を回ったとき、どの場所も無期限閉鎖になっていることに気がついた。僕は、ついにどんどんこの問題の想像以上の深刻さと影響を感じ始めていた。

 

1月26日に広州で有名な観光地のこの教会に行ってみたが、コロナウイルスの問題で閉鎖されていた

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いつもなら観光客がいっぱいいるスターバックス・リザーブも閑散としていた(1月26日@沙面島)

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メディアが騒ぐほど”ゴーストタウン”とは思わなかったが、それでも問題初期(1月下旬)の街は閑散としていた(春節で人が少なかったのもある)

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「新型コロナウイルス」という問題の深刻さを考えるとき、僕は2002年〜2003年に中国などで流行したSARSを思い出していた。

 

「SARSはかなりやばかった。コロナウイルスはそれ以下か、悪くてもSARSくらいだろう」

 

一番最初はそんな感じで考えていた。なぜなら、「SARSはかなりやばかった」という印象がなんとなく僕の中にあったからだ。でも、フタを開けてみるとビックリ。コロナウイルスはSARSどころか、100年も前に数千万人を殺したとされるスペイン風邪と比べられるほどの「世紀のパンデミック」になってしまった。SARSなんて遥かにかわいく見えるほどのやばさだ。

 

でも、僕は、希望を持っていた。そんなパンデミックが起きてしまった中でも、可能性がある限り、全ての省と全ての世界遺産を訪れる旅をなんとしても再開して、達成するつもりだった。先が見えなくても、僕の意志は、固かった。

 

だから、広州での生活がどんなにしんどくても僕は耐えた。

 

だから、中国にいた僕の友人たちが瞬く間に世界中に脱出しても僕は留まった。

 

毎日のように夕日を眺めながら、待ち続けた

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僕のスケジュールと残っている場所(16の省と32の世界遺産)を考えると、旅の再開を待つことができる限界は3月中旬までだった。僕はそれまでなんとか希望をつなぎ、乱れに乱れたしんどい生活をしながらもできることをした。

 

その一つが、北京で所属していた大学院の修士論文を書き上げることだった。2019年から2020年、僕は大学院の2年生だったので修士論文を書く必要があった。でも、僕はその1年間のほとんどを旅のプロジェクトで各地に転々としていたので、その道中で書く必要があった。

 

「旅を再開するとどっちみち日々問題がいっぱい起きて忙しくなるから、広州にいる間に全て終わらせよう!」

 

絶対に旅を再開してやるんだと思っていた僕は、旅を自由に満喫するため、とにかく頑張って再開前に仕上げることにした。でも、旅先のほぼ自主隔離中みたいなホテルの部屋で、修士論文を書くなんてしんどすぎる!ただ、3月中旬(3月16日)に旅を再開するという見込みを立てると、3月に入ってからは毎日、修士論文ばかりを本気で頑張った。

 

いろいろな文献をオンラインで読み漁り、急遽131人の日本人にアンケートをとり、大学院の教授とメールで議論をしながら、最終的に2万字の論文(英語)を書き上げた。論文の質は全然高いものにはできなかったかもしれないが、少なくともちゃんと旅の再開までに書くことができたのは良かった。

 

ホテルで修士論文を書き上げるのはいろいろな意味で大変だった

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そんな”旅の準備”を済ませると、僕はついに52日間も滞在した広州を出て、3月16日に旅を再開した!でも、広州から着いたばかりの次の町のバスターミナルで、2週間の強制隔離か今すぐ広州に戻るかの選択を迫られることになり、旅の再開という希望はあっけなく消え去った。そして、このタイミングで旅を再開できないことは、今回、ミドルキングダムの冒険を達成できないことも意味していた。

 

「終わった。」

 

僕は、もうどうしようもないという無力感と、もう何もする気にならないという無気力で満たされた。そして、またそれまでずっと滞在していた広州のホテルの同じ部屋に戻った。

 

満を辞して3月16日に旅を再開する前日、「広州に最後のお別れを告げるため」と思って、街を散策した

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満を辞して3月16日に旅を再開する前日、「広州を出る前に」と思って、広州タワーの展望台に登った

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旅を再開して着いた次の町のバスターミナルで究極の選択を迫られ、結局すぐに広州へと追い返された

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広州での生活はとにかくしんどかった。

 

旅の再開までじっくりと耐えていた1月24日〜3月16日の辛抱期もしんどかったが、それ以上に、旅の達成という目標が打ちのめされて、まるで消化試合となってしまった3月16日〜5月16日までの絶望期はもっとしんどかった。

 

でも、僕は、「自分のいる状況の中でベストなことに挑戦し続けよう」という根性も持っている人だ。だから、しんどい中でも動画は作り続けたし、SNSでの発信は続けたし、ホームページには新しい記事を書き続けたし、コロナ禍の中国は観察・記録し続けたし、各種メディアにも登場した。4月から日本で緊急事態宣言が始まると、学生の悩みをお助けするため「なんでも相談」も始めて、毎日のように知らない人たちとテレビ電話で話した。

 

「旅とパンデミック」というテーマで僕の旅とパンデミックの経験についていろいろとまとめているのも、このときから始めた(この記事もその一部だ!)。

 


コロナ禍の広州の状況について、街を歩き回って記録し、動画などで発信していた

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もうどうしようもないから、広州もできるだけ楽しむようにした。旅の再開前に2回行ってもずっと無期限閉鎖中だった博物館にも、広州に戻ってきてからは行くことができた。この玉衣だけはずっと見たかったから感激。

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コロナ禍の中国・広州を観察・記録することが、旅をもうできない中での新たなミッションでもあった

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コロナ禍では世界中の友人と電話をすることも多かった。みんなそれぞれ大変な時間を過ごしていた。

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「なんでも相談」では毎日のように誰かの相談にのっていた(思いのほか反響があり、日本帰国後もずっと続けている)

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夜中のホテルで動画撮影。1月、2月はほぼ貸切状態で、そのあとも多少はお客さんが増えたけど、少ないことが多かった

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コロナ禍の中国で過ごした114日間は、とにかくしんどかった。それが、率直な感想だ。

 

でも、その中でも忍耐強く頑張ることができたのは良かった。

中国に限界まで留まり続けたことも良かった。

 

多くの学びがあったからだ。

 

旅はね、どのタイミングになるかわからないけどどっちみち近い将来に絶対達成する!そう考えると、むしろ世紀のパンデミックが直撃したことは、僕のストーリーをもっとドラマチックに、もっとおもしろくしてくれるかな!笑

 

そんくらいの心持ちでこれからも頑張って中国を見ていこう

それで、中国のおもしろさをもっと多くの日本人に伝えて、もっと多くの日本人が中国を実際に訪れるようにしたい!

それは、絶対におもしろい、大事な変化を起こすから!!

 

いつもお世話になったホテルの店長。こんなしんどいときに、こんな親切な人が多いホテルにたまたま辿り着けたのは何よりもラッキーなことだった。ありがとう。

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(旅とパンデミック***18, 11月8日)

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